11月21日
リーダー/村上・原
隊員数/9名
漕行距離 約35km 倉橋島唐船浜→屋代島(周防大島)
いつも通り朝 5 時に起き、ストーブの火をつけてお湯を沸かす。空にはまだ星が出ているが東の地平線はすでにほんのりと赤みがかっている。凛とした空気が眠気を消し神経を研ぎ澄ます。冬の早朝に熱いコーヒーの湯気が漂う。吐く息の白さよ。
夜型のだらしない生活を続けていると、こういう早朝の儀礼が大袈裟にも神聖に感じてしまう。
今日も一日が始まる。横断が始まる。
この日はこの横断の最大の山場といってもいい屋代島(周防大島)への海峡横断がある。瀬戸内海を塞ぐような形で島が列なる防予諸島。その島々の間は瀬戸内の海水が絶えず移動し、恐ろしい潮流を生み出している。倉橋島南端からその防予諸島の一つに取り付き、そこから瀬戸を渡って周防大島に取り付くまでが瀬戸内横断において一番重要な場所のようだ。
その日の潮汐、その潮の変わる時間、その時の風、天候。それぞれが自分達の進行予定ラインに対して一番抵抗にならない、効率の良い瞬間を狙って漕がなければ大島にはたどり着けないのだ。
昨日、心配だった風はどうやら収まってくれたようだ。天気も申し分ない。
唐船浜から舟を出す時、正面から朝日が昇り、温かく僕らを見守ってくれていた。あとは潮さえ間違わなければ漕いでいけるだろう。気合を入れるように舟を前進させる…。
ところが…
「す、すいませ~ん…、パドルとってくださ~ぃ」
水面を徒手空拳で漕ぎ、浜にたどり着くユージさん。キャンプ場のおじさんが堤防に立てかけてあるパドルを渡してあげる。
なんとパドルを忘れて漕ぎ出してしまったのだ…!
これが世にいう『命のパドル事件』である。
全員抱腹絶倒。いやー、朝からやってくれますぜ…。さすがです。
多少のユーモアを誘いつつ、横断隊は倉橋島を南下、地図には載っていない「村上水道」を渡って鹿老渡を西に回り、再び橋をくぐって鹿島の東側を南下する。
さー、いよいよだ。鹿島南端に出てしばらく海上にて休憩。前方には多数の島々が見える。海峡の半ばには標識用の灯台がある。そこを中間点とし、正面に見える津和地島、むかって右にある氏神鼻を目指していく。
この海峡横断、気合を入れて望んだ割にはけっこうアッサリこなしてしまった。天気も良いし、風もいい向きから吹いている。波はなく、潮も流れてはいるものの、抵抗になるほどではないようだった。ちょうど 8 時過ぎに鹿島を出発してから 1 時間ほど、 9 時頃には津和地島北端沖に到着、小児島、流児島を東にまわって南下し、島の南側で一時トイレ休憩。そのまま島の南岸をトレースしながら諸島に渡り、片島を目指す。
この島と島との間、ここがやはり、潮が相当流れていた。追い潮なのでそれほど大変ではないのだが、突然逆潮になっている場所、つまり反流があったりして舟を真っ直ぐに進めるのがかなり困難ではあった。複雑に流れが絡み合い自分がどこに行くのかわからない。なんとも不気味なパドリングだった。
風と潮がちょうど良かったので何とか通過できたが、本来この場所は爆流がながれ、その上風が吹いた日には風波ができて漕行はかなり困難になる。だから、素直に運が良かったと思う。
周防大島が右手に見えてきた。片島目指して南西に向って漕いでいくが、途中から妙に舟が進まなくなってきた。いい加減島が近づいてきても良いのに…と、みなが思い出した頃、片島を諦めて大島に進路を替える。
11 時、逆潮にやられ、へろへろになりながら大島の油宇に上陸、昼休憩となった。珍しくゴロタの浜で、ファルトにはチト痛いが、砂まみれにならず、乾きも良いので気持ちよく過ごせる。行動食のオールレーズンが粉々になってきたのでラーメンを作り食べる。みんなゴロタの上に寝転がって昼寝をしている。日が照って気持ちがよい…。
いつもどおり、 1 時間の休憩ののちに出発。
ここから先はひたすら大島の南沿岸に張り付いて西を目指していけばいい。
この辺まで来ると、それまでの花崗岩の白い岩肌から、火山岩の灰色がかった岩肌になり、島々の様相も変わってくる。しまなみ街道の島々が女性的だとすると、さしずめこのあたりは男性的なイメージだ。それだけ内湾だが外洋の要素も含んだ海になっているのだろう。透明度もあがり、海中にはホンダワラが確認できるほど透明度がいい。
風は大三島を目指していた時にくらべればほとんどなく、湾の中にまで入って漕いでいく必要もないから岬から岬へと、かなりショートカットして進んでいく。片島の北を通り抜けた後、馬ヶ原沖を越え、笹島に向う。比較的風はないといえるのだが、この辺りは大島の細長い屏風のような山に北からの風を遮られているため、山のくびれた場所からは北西の風が吹き降ろしてくる。ちょうどこの笹島の辺りは山がくびれており、なかなか強い風が吹き降ろして難儀した。
しかしそれほど苦労する事もなく着々と漕ぎ進み、 15 時半、目標にしていた沖家室島が見えてきた。今日はこの島のどこかでビバークする予定だったが、浜が小さく、あっても今日で離隊する五福さんが帰れないとまずいので島には渡らず、大島側の地家室の浜に上陸した。途中、沖家室島の沖で明日から加わるまっちゃんこと松本さんがカヤックを漕いで待っており、そのまま一緒に浜にたどり着いた。
流木で埋め尽くされたゴロタの浜で、結構波によってビーチが削られている。何とかギリギリ、舟を置き、ビバークするスペースが確保できた。
浜に上陸すると五福さんはすぐさま、みんなの協力のもと荷物を運び出しカヤックも海岸の上にある道まで運び上げ、サポートしていたあっちゃんの車に乗せられた。
あと 1 日だというのに残念だが、それは当の本人が一番思っている事だろう。残りの行動食をありがたくもらい、 2 人は早々に去っていった。
浜はそれまでにない、荒々しい浜で流木だらけだ。はっきり言って僕好みの燃やしがいのある浜である。各自わずかなスペースに砂利をならしてテントを張り、適当な所に太い流木を並べて焚火をした。
乾燥した流木はいきおいよく燃えてくれる。バチバチと妙に爆ぜる丸太があり、何かと思ったら一番太い丸太だった。残念だが海に放り投げる。
内田さんの焚火は新谷さんの焚火と一緒だ。太い丸太を二本並べ、その間で大量に木を燃やし、熾きを作って後はそれに細かい薪を入れて火力調節をする。雨が降っても消えない、料理もしやすい最高の焚火だ。寒いためか、みんな焚火のそばに集まって、各自煮炊きをし、夕飯を食べながら酒を飲んだ。
一人だけ焚火には集わず、浜の端っこで「ここの方が条件がいい」と、テントを張った人がいる。高橋さんだ。
この人は不思議な人だ。一見、団体行動のとれない人間のように思える行動をしているのだが、これといって他の隊員はとやかく言わず放置している。自分勝手な人とも思えるが、しっかり出発時間は守るし、若干先頭を突っ走ることもあるが漕いでいてもペースを乱さない。誰とも話さない孤独な人とも思えたが、そんな事はなく、結構話を振ってきたりする。しかも話をすると面白い。
後で知ったのだが、高橋さんは過去毎回横断隊に参加しているものの、完走できたのは一度しかないと言う。いつも寸前のところでリタイヤする羽目になり、そのぶん初参加の僕なんかよりも数倍悔しく、今回の完漕に気合が入っていたのだそうだ。その為の自己調整、ペースを崩さず、自分のコンディションを維持するために、あえて皆とは離れ、行動していたというのだ。
ストイックなおじさんだ。カヤック、横断隊に対してマジだ。
この夜、明日は最終日という事で原さんが朝 6 時に出発しようと提案した。そのため、起床が 4 時に決まったのだが、高橋さんは遠くにいたのでこの事実を知らない。
「大丈夫だよ、あいつ朝早いし、なんとでもなるって」
そう言って、誰も伝えることなく酒を飲み続けるのだった。実際、翌日の出発には問題なく起きているし、「そんな気がしてたんだよね」と、本人もけろっとしている。
普通ならありえないやり方だが、お互いのキャラクターをわかりきっているからこそ、成り立っている横断隊なのだろう。僕はこういうニヒルなオヤジが好きだ。
焚火があると、ついつい飲んでしまうのだが、さすがに明日は本当に最後だ。パチパチとはぜる焚火を片付け、それぞれテントに散っていった。
11月22日
リーダー/太田・赤塚・原
隊員数/9名 五福離隊 松村合流
漕行距離 約35km 屋代島(周防大島)→祝島
朝 4 時。当然の如く真っ暗だ。まだ夜である。冬用の寝袋から出ている顔が冷気で冷たい。正直、あまりにも気持ちよすぎて外に出る気はしなかったが、仕方がない。気合を入れて寝袋から出ると、現実の世界に戻る事が出来た。
そうだ、今日で最後なのだ。
あまりにもデコボコの場所にテントを立てたので、寝る場所の下にトタンを敷いていたのためにベコベコと奇妙な音がした。
いつも通り、ストーブに火をつけて朝食の用意をする。テント周りのものをかたづけてパドリングジャケットに着替える。飯を喰うのは出発準備がすんでからだ。
ブリーフィングを行おうとした時、向こうから高橋さんがタバコを咥えながらやってきた。ヘッドランプが壊れて焦ったらしい。それでも大体道具を置いた場所はわかっていたので何とかなったようだ。今となってはどうでもいいが、当人にとってはかなりのハプニングだったのだろう。朝から興奮気味だった。
水平線が明るんできた頃、差し入れのリボビタン D を飲み、カヤックを水面に浮かべた。まだ朝焼けにもならないかすかな赤い光の中、水面に浮かぶカヤッカーのシルエット。早朝の神聖な空気の中、それは最終日の出艇には申し分ないほど、絵になった。
午前 6 時出発。頭にはヘッドランプを点灯していく。前が見えないというより、漁船への目印である。
沖家室(おきかむろ)島との海峡をくぐり、伊崎、立島と進む。この日は西の風が適度に吹いている。向かい風となるが、それほど抵抗になる風でもない。むしろ、逆風に向って漕ぐのは燃えてくる。吹き降ろしの風を警戒しつつも、沿岸域を漕がずに岬から岬へ、最短距離を稼いでいく。
安下庄湾を越え安下崎、仏崎と越えて周防大島南端、法師崎にたどり着いたのは午前 9 時。かなりいいペースで漕いでこれた。
法師崎の風裏で休憩したのち、今度は周防大島を離れ、上関室津半島の南端を目指す。途中、お椀のような肉まんのような上荷内島と下荷内島を通過する。この海峡は周防大島に来た時の海峡に比べれば潮の流れはマシだったが、それでもかなりの流れがあり、場所によっては結構悪戦苦闘した。
室津半島、千葉崎にたどり着いたのは 10 時 15 分頃。約 1 時間ほどだ。ここで 10 分ほど海上にて休憩したのち、横島に向ってこいでいく。ところがここで思いのほか向かい風が強く、沿岸伝いに漕いで行き長島と室津半島を結ぶ橋のごく近くを通過し、長島に移った。赤石鼻の近くの浜に上陸して昼休憩を取る事になった。
この辺りはロックガーデンが広がっており、磯周りに細い水路が多数あった。その一本が通過できそうなので隊から離れてそっちに向ってみる。あまり個人行動はよろしくないのだが、水面を漕ぐだけじゃつまらないよ。たまには寄り道もしたい。目的の浜は目の前なのだ。
案の定、そこは通り抜けできた。瀬戸内海とは思えない透明度のいい場所で、三浦半島や東伊豆に似ている。ホンダワラの上を漕ぎぬけた。
目的の浜に上陸し、腰を伸ばしているとまだ海上にいる人達がなにやら騒がしい。村上さんがドーノコーノ言っている。
「獲ったドー!!」
よく観ると、村上さんが巨大な魚を掴んでいるではないか…!!鱸だ!!
皆で集まり、魚をマジマジと眺める。どうやら、漕いでいたら水面をパタパタと何かが動いているので近づいてみたらこいつがいたらしい。最初はクロダイかと思ったらしいが、こんなに大きな鱸とは思いもしなかったという。しかも獲ったのが、僕が通ったあの沿岸水路の中だというのだ。
「アカツカ君の後ろを通っていかなかったら、獲れなかっただろうな~」
い、いやいやいや…ちょ、ちょっと待ってくれ!て、ことは僕もその魚がもがいている場所を通過したということだろうか!?この僕がそんなお宝を逃していたなんて!!自分の観察力の無さ、漁労技術の貧弱さを嘆いた…。
しかしまぁ、結果として魚はゲットした訳だ。魚体は特に病気というわけでもなさそうだし、傷も無い。近くに釣船がいたから、海底から釣り上げられたのがバレて浮袋の調整がうまくいかず、モガいていたのかもしれない。
「よーし、刺身だー!!」
内田さんがかなりやる気だ。手にはすでにスーパードライを持っている。
「ところで誰がさばくの?」
「おー、だれかさばけやー!このままじゃさすがに喰えんぞー!!」
ふふふ…。ここで自己主張しなきゃ男が廃る。これこそ俺の仕事。
カヤックに備え付けているスノーピークのナイフを取り出し、僕がさばく事に。鱗を落とし、鰓を取り、腹を開いて内臓を出す。あまりにも手際よく(?)さばくので皆は唖然。人間、誰しも得意分野ってのがあるわけで。
二枚にさばいて頭と骨付きの肉は祝島で食べる事にし、半身を内田さんと一緒に刺身にする。これを村上さんの食器兼フリスビーに盛り付け、せっかくなので浜に咲いているツワブキの葉と花を添えてそれっぽくする。
「おお~、刺身だーッ!!」
写真を皆で撮りまくった後、各自箸や手掴みで刺身を頬張った。内田さん持参の刺身醤油と柚子コショウが良い感じだ。獲れたてプリプリ、脂の乗った非常にうまい鱸だった。まさに天からの恵みだった。
「とりあえず、これでも喰ってラストスパートがんばれや!」ってな感じだろうか。
まったりとそれから昼食を食べ、いつも通り1時間の休憩ののち出発。
ここから長島南端の四代までは僕がリーダーをする事になった。
と言っても、わずか5㎞ほどだ。風は相変わらず西風が吹いていたが難所らしき所もなさそうだし大丈夫だろう。それまではユージさんがリーダーで、祝島に上陸する際にマスゲームではないがカヤックで編隊を組んで上陸しようと言う事で何種類か練習していたのだが、みんな心の中では(面倒くせ~)と思っていたと思うので…やめた。ユージさん、すいません!
案の定、何の問題もなく岬から岬へと隊を進ませ、1時間ちょっとで四代まで着いてしまった。北西風が強くなってきたので休憩の1時間を過ぎたが風裏まで漕いでいき、休憩。僕のリーダーはここでアッサリ終り。最後の祝島までのリーダーは原さんがしめる事に。
四代裏で休憩したのち、長島の南西端、田ノ浦に向う。
ここは上関原発の開発予定地で湾内には多数のボーリング用の建築物がそびえていた。だが、それよりもふと沖を見ると、まん丸のお椀のような形をした島が見えた。
「あれが祝島か…!」
ついに最終目的地、祝島をとらえた…!原発の不自然な建物と、ゴールの島が目の前に見え、なんだか妙に複雑な気持ちだ。
そしてそれを塗り潰すかのように海が豹変していた。三角波が立ち、風が島を前にして右側、北からものすごい勢いで吹いている。瀬戸内とは思えない大きなウネリが僕らを襲う。ここを越えればゴールなのだ。最後にして、最大の難関が迫っていた。物語のラストとしては相応しい、好敵手だ!
「大丈夫、行けるぞ!」
リーダーの原さんはそう告げ、荒波の中に突っ込んでいった。鼻繰島(はなぐりじま)を左手に見ながら、祝島の右端を狙って進む事に。
祝島まではわずか2㎞ほどの海峡横断だ。コンディションは悪い物の、技術的にも体力的にも漕げないレベルではない。むしろ、これまで風は強くて複雑な細かい波の中を漕いでくることはあっても、このような大きな波の中を漕ぐ事はなかったので僕には面白かった。荒波の中、船体を軋ませながら漕ぎ渡る時、シーカヤック本来の姿が表現できるのだと思う。斜め右前からやってくる波をうまくいなしながら、向かい風の中漕いで行くのは最後と言う事もあるが燃えた。
「漕げー!」
どこからか掛け声が入る。それまで黙々と漕いで来たなか、急に声を出しながら漕ぐと緊急事態に陥った気分になり妙にアドレナリンが出る。不謹慎かもしれないが、僕は顔をニヤつかせながら漕いでいた。面白くてたまらない…!これが海を渡る醍醐味だ…と!
ところがだ。誰しもが荒れた海を好んでいるわけではない。次第に隊は離れ離れになってきていた。ただ単に遅い人がいる場合は前の人がスピードを落とすだけで良いのだが、目標地点よりも右側から波が来るため、波と垂直に漕いで行きたいが為かどんどん右に移動していってしまう人がいる。大声を張り上げて呼ぶが、風が強く、波で隣のカヤックも見えるか見えないかという状況なのでうまく連絡がとりきれない。
「そうだ、これは単独行ではない、チームでの遠征だった…!」
自分ひとりがゴールすればいいのではない。レースでもない。全員が無事、ゴールできなければ意味がないのだ。アドレナリンの興奮状態に陥っていた僕はふと我に帰り、先頭集団にいたのをスピードを落とし、しんがりにつくことにした。
後を見ると海上保安庁の巡視船が通りかかっていた。ちょっと心配になる。変に止められるのも嫌だし、監視されていると思うのも嫌なものだ。
前には今日から参加しているまっちゃんこと松村さんがいる。かなりいいペースで付いて来ていたので「漕げる人だな」と思っていたが、ここにきて完全な腕漕ぎになっていた。体が真正面を向いたまま、腕の力だけで漕いでいるのでシンドそうだ…。しかも波がでかいのでパドルが空回りする事があり、波のトップに来るとバランスを崩しかける時がある。見ていてかなり怖い。もっと大きく漕ぐように指摘しようとしたら、横槍が入った。
「まっちゃん、漕げ~!!」
元準さんが後ろから叫んだ。その声にビックリして漕ぎまくるまっちゃん。
疲れたとか、波が怖いとか、どうしていいかわからないとか、色々な理由でパドリングを途中でやめてしまう人がいる。だけどカヤックに乗っている時に漕ぐのをやめるのは非常に危険なのだ。特にこのような時化の海ではとりあえず漕いでれば何とかなる。漕いでさえいれば、チンすることはまず無い。ブレースだとか、スターンラダーとか、テクニックがどうのこうのじゃなくて、とにかく漕げばいい。1時間に1㎞しか進まなくても、2時間でも、5時間でも、漕ぎ続けていれば生きて帰れるのだ。
だからとにかくカヤッカーは海にでた以上、漕ぎ続けなければならない。
腕漕ぎの人は肉体の限界を越えたあたりで「それでも漕がなければならないのならば、どうすればいいか??」と、体が判断してくる。肉体が自ずと効率的な漕ぎ方を体得していく。海が教えてくれるとも言えるだろう。精神が肉体を凌駕してくる時、肉体はそれに応えようとする。そしてある時、腰を使った効率的な漕ぎ方を体得し、悟りを開いた様な感動があるはずだ。漕いでも漕いでも疲れない、どこまでも漕いで行けそうなフォームを体得する。
そのためにはスクールなどに通うのも確かな事だが、手っ取り早く荒れた海をがむしゃらに漕ぐ必要がある。まっちゃんには最後にして最高のパドリングができたのではなかろうか。
島の港が近づいていた。うねりは収まり、風も島のためかいくぶんマシになったような気がする。潮が風とは逆に流れているため波が不自然に出ていたようだ。風が静かになると今度は潮の流れを妙に感じた。
14時30分、わずか40分間だったが、荒れた海を漕ぎ渡り無事に祝島の港の中に入る事が出来た。灯台のある堤防の先端で隊員の家族や島の人達が出迎えに待っていた。僕には誰も知り合いはいなく、寂しい凱旋ではあったけど、祝福されるのは嬉しいものだ。
14時40分、港内の砂浜に上陸。ハルさんは目を潤ませて皆と握手した。全員、一人一人と握手をし、抱き合った。
香川県直島から出発して一週間、2007年度は無事、瀬戸内を祝島までくることが出来た。僕は初参加でゴールするのが当たり前のように考えていたが、過去4回で2回しか成功していないこの横断隊。毎年参加している、もしくは前回参加して完漕出来なかった人にとっては僕の考えなど及びもつかないほどの思いと感動、達成感があったのだろう。
本当、完漕できてよかった。そして、この人達と漕げてよかったと心の底から思った。
最後の記念写真、あまりガッツポーズとかしない僕なのにも関わらず手を握ってポーズをとっていた。嬉しかったのだろう。その写真は後に発行されるマガジンハウスのターザンに内田隊長の連載記事に載っていた。あの写真は本当に良い写真だと思う。みんな、いい顔していた。それがこの遠征を見事に表していると思う。
第5次瀬戸内シーカヤック横断隊はこうして終った。
エピローグ ~横断隊後記~
祝島に着いてからはこの島の漁協組合長だった山戸さんの事務所にお世話になることに。
この島の集落は港を中心に山の斜面を覆うように扇形に出来ている。海からの風を防ぐためか、海には高い城壁が作られ、、小高い石垣の上に家が建っていたりと独特の町並だ。通りからはわかりづらい巨大な門をくぐり、壁に囲まれた中庭を通って家に入る。中国の家のようだ。
各自、荷物をかたしたり今日のうちに帰るまっちゃんのカヤックを運ぶのを手伝ったりし、最後の仕事をした後はゆっくりとくつろいだ。島のお母さん達が豚汁を作ってくれていて、それをおかずに差し入れを食べる。酒粕が入っていて、すごく温まる、慈愛に満ちた味だ。実の親でもないが、「お袋の味!」という感じで久しぶりに人の温もりを感じる料理に一人感動した。やはり島のお年寄りが作ってくれる料理は昔ながらの味なので安心する。
これほど島民の方々に親切にしてもらっているのには訳がある。
それは過去 5年間横断隊が通い続けているということもあるが、地元上関の原さんがこの島と深く関わっているからだ。
上関には原発建設が予定されており、祝島はその予定地のほぼ正面に位置する島だ。当然、海の恵みに頼ってきた島民達は過去、数十年間近くこの原発の建設に反対してきた。ちょうど今、その原発が建つか建たないかの瀬戸際の時期にあり、反対運動も頻繁に行われている。島民がほとんど高齢になっている今、山戸さんの息子さんや原さんなどの若い人達は強力なエネルギーになっている。
そういう共通の敵がいるということもあるだろうが、この島の人達がシーカヤックと言う物を理解し、横断隊の意義や主旨に協力してくれているのは原さんの献身的なこれまでの活動による所が多いと思う。
旅人、流れ者、そういう類の人間は地元民、島民には嫌われる事が多い。所詮はよそ者。奴等には自分達のことはわからない、利用されるだけになるのは御免だ…と、旅番組などの優しいイメージとは異なってより現実的なことを考えているのが本音だと思う。
僕はそれを沖縄で嫌というほど知った。
島根性、封鎖的思考は根深い。だけど、個人個人は良い人なのだ。人と人として会い、話をし、体験を共有すれば心を開いてくれる。それには旅人として刹那的な出逢いではなく、もっと膨大な時間と労力が必要になる。原さんとこの島の人達との関わり方を見ていると、驚くことばかりだった。この人がどれだけ自分をさらけ出しているか、この島の事を考えているかがわかる。感嘆するしかない。
原発の関係があり、この日も夜は六ヶ所村の核燃料再処理工場のドキュメンタリー「六ヶ所村ラプソディー」が島民を集めて上映する事となっており、その監督も島に来ていた。それに合わせて僕らはこの島に来た事になっている。疲れた目を擦りながら僕らはそれを見に行った。
この問題に足を突っ込んでしまった以上、原発に関しての僕の考えを書かなくてはいけないのかも知れない。だけどそれは別の機会にまわしたいと思う。僕の今の知識ではわからないことが多すぎて話しにならないからだ。ただ、僕の住んでいる近くに原発ができると言うのならば、当然の如く反対する。原発の存在理由、目的、意義などはこの際どうでもいい。自分の住んでいる土地に、他人の生活の為に必要な電力を作る目的で訳のわからない不気味な物を撒き散らす建物が出来る…。雇用の少ない田舎に出来ることが多い(金で住民を賛成勢力に変えられる)、豊かな自然が残っている地方に多い(要はド田舎)、そういう場所は住民が少ない(反対勢力が少ない)など、色々な要素が絡まって問題を複雑にしているが、普通に人間の倫理感覚で考えれば「反対」だろう。
「しょうがない」などと、原発のない土地に住んで言ってみても、しょうもないことだ。
だけどこの土地の住民で無い僕には周りが反対しているから一緒に反対する…というのはフェアではないと思うのだ。馬鹿げた行いかもしれないが、一方で賛成している人たちもいる。その人達が何故賛成なのか、どう考えているのか??金??それらを考慮しない限り、僕はただ単に反対派の意見を鵜呑みにしているだけの人間になるのだ。僅かなこの島の滞在時間ではよくわからない事が多すぎる。それは僕の原発に対する予備知識の無さが悪いのかもしれない。
無知は罪だ…。
「六ヶ所村ラブソディー」は、原発を反対する島民の人たちには共感する物が多かったに違いない。眠たくてしょうがない僕らを他所に、皆さんマジマジと見入っていた。
2時間とえらく長くて見るのは大変だったが、よく出来たドキュメンタリーであったと思う。
公民館での上映が終ると、僕らは事務所に戻り、山戸君の焚いてくれた五右衛門風呂に代わる代わりは入り、宴会が始まった。隊員はもちろん、島の人から映画上映関係者、新聞記者、横断隊隊員の身内や応援者など、色々な人間が一同に集まり、内田ボブの CDを聞きながら寝たり飲んだり、話したり絡んだり、とにかく体力の限界に挑んでいた。日付が変わったころ、僕はもうダメだと寝室に移り、久しぶりにフトンで眠らせてもらったのだった…。
翌日は昨夜の残り物で朝食を食べ、 9時半には荷物をかたして島を離れる事になっていた。
内田さんやハルさんは漁船にカヤックを乗せてもらい一緒に車を置いてある港まで行き、僕と原さん、元準さん、高橋さん、村上さんはカヤックで上関の蒲井まで漕いで行く。その時、僕は内田さんの使っていた野村さんのアークティックウィンドーを使わせてもらった。
僕はただ単に久しぶりにこのナローブレードを使ってみたかっただけなのだが、もともとこれは高橋さんのものだったらしく、高橋さん的には嬉しかったようで、それは同じく内田さんもそう思っていたらしい。
昨日のうねりはウソのようにこの日はベタ凪。たくさんの遊漁船が出ており、鯵やマダイを狙ってる横を僕らは漕ぎぬけていった。後ろから漁船が近づいてくると思えば、皆を乗せた船だった。快晴の海を旅の終わりに漕ぎ、その横を皆が手を振りながら追い抜いていく。
なんだか物語の終わり、解散を見事に感じる瞬間だった。頭の中に松任谷由美の「やさしさに包まれたなら」が流れた。
原さん達とパドルを交換しながら、いろいろ喋りながら漕いでいたらあっという間に着いてしまった。おそろしく透明度のいい海。こんなきれいな海が瀬戸内海にもあると言うのは驚きだった。
スロープにカヤックを揚げ、皆で運び上げる。これで本当に、カヤックの旅は終った。
恒例の儀式、カヤックの解体が始まる。しかし、この時原さんに送ってもらうことになり、原さんの家でカヤックを洗ってからたためば言いと提案され、ありがたく甘える事にした。
荷物をまとめ、車の中に放り込んでカヤックをキャリアに乗せる。手馴れた物で、名残惜しむ事も無く仕事はあっという間に終わってしまった。妙に馴れ馴れしい子猫がそばにいて、ずっと遊びまわっていた。
僕は昨日島に渡る事が出来なかった下関から来た歯医者さんに送ってもらい、原さんの自宅に向った。
途中でみんな合流して最後の挨拶をして別れるのかと思っていたが、どっこい、いつの間にか解散していた…。ちょっと寂しい。。。
途中、飯を食べていこうと言う提案だったが結局どこも混んでいて車が停められず、そのまま原さんの自宅へ。原さん達が事務所にいって車を取り替えたりする間にカヤックを洗わせてもらう。
それが一通りすんだ頃、行きつけの韓国料理屋に行き、ランチを食べて終わるはずだったのだが…そうは問屋がおろさず、結局運転手を残して飲む事に…。
原さんはそれまで硬派な冒険家というイメージを醸し出していたのだが、それは横断隊でのシリアスな姿であって、その緊張の糸が切れたのか、地元のよしみなのか、ものすごい勢いでビールを飲み、ものすごい勢いで自我崩壊を起こしていた。その壊れっぷりが面白い。
結局、店で 4時間ほど飲み、その後原さんのショップ「ダイドック」に移り飲みなおす。原さんの実家は酒屋なので酒には困らないというから、困ったものだ。しかしここで多くの人が帰り、原さんも寝てしまったので僕はユージさんと延々 1時頃まで喋り、あまりの体力の消耗に 2人して倒れるようにして寝た。そして 4時にはユージさんは起きて長門に帰っていった。
翌日、僕は原さんにお世話になり、駅まで送ってもらって帰宅した。最後の最後にしてえらい酒飲んで、しゃべりまくるというのは僕のいつものパターンなようだ。今回もえらいお世話になってしまった…。
原さん、真紀さんありがとうございました。
瀬戸内横断隊の感想は 横断隊の公式ブログ に、投稿したレポートどおりである。本当、参加した意義はかなりあったと思う。
シングルのファルトボートで最初から最後まで完漕したのは、何気に僕が初めてらしい。これはかなり嬉しい。当初はリジットで参加しようか迷っていただけに、この結果はファルトで参加した意味があったというものだ。
それに、体力的には通常の遠征よりシンドかったかもしれないが、充分このくらいのペースでファルトでも漕ぐ事ができる事がわかったのは僕の中では大きかった。改めて自分の技術が上がっている事とともに、愛艇であるフェザークラフトの性能を信じる事ができたと思う。
無補給で行う事が前程…という事も、横断隊に参加している段階ではじめて知った。だから何で出発時に「この人たち、妙に荷物が多いな~」と思ったのも理解できた。水まで無補給で行うというのも驚きだった。水は補給していくものだというのが僕の中では常識だったし、そういうフィールドばかり漕いできた。だが、バハ・カルフォルニアに代表されるような砂漠の海や水質の悪い環境を漕ぐ場合、水も無補給で漕ぎ続けるということも確かに考えれるわけだ。模擬的にそれを行うと言うのは、確かに訓練としては良い事だと思う。
今回、僕はとにかく漕ぎきる事だけを考えていた。だから自分の中では最初に書いた通り、瀬戸内海を知る、ファルトで漕いでみる…といったことだけを主力のテーマにしていた。だが、周りを見るとそれに +α、皆さんテーマを持って参加していた。例えば高橋さんは横断隊の人間関係に惑わされる事無く、ストイックに完漕する事だけを心がけていた。村上さんはできるだけストーブを使うことなく、自前の焚き火台を使い、細かい薪を探して煮炊きを行っていた。上蒲刈島の B& Gでもその姿勢を崩してはいなかった。原さんはフィールドテストを兼ねてか、地元の森林組合が開発したと言う「里山コンロ」という、一酸化炭素を出さない炭でつまみを作っていた。そして差し入れされるビールには手をつけず、自前のグリーンラベルだけを飲み続けていた。
同じ「瀬戸内を横断する」という目的はありつつも、各自が個人個人の課題を持って参加している、それが横断隊だった。
ただでさえ個性の強いシーカヤッカー。その中でも特に灰汁の強い横断隊の隊員。
それら強力な個性の塊が同じ目的を遂行しつつもバラバラな事もやっていると言うのが自由と混沌を象徴しつつもそれらを各自受け入れて同じ方向に向っていける可能性を見出している。
来る物は拒まず、去るものは追わない。そういう気質が横断隊にはあると思う。
そう考えると、これはかなり面白い集団だと思うのだ。
横断隊全体としてのビジョンはあるだろう。隊員をはじめ、それを一番強く感じているのは隊長である内田さんだろう。そのビジョンに好感を持つならもちろん、無い人でも興味があれば何はともかく是が非でも休みを取って、数日でもいいから参加してみるといい。カヤックを漕ぐ事、瀬戸内のこと、人間関係のこと、色々面倒臭いこともあるかもしれないが得る物はあると思う。
僕は今後も機会が作れれば瀬戸内横断隊に参加したいと思う。
今回の経験から、カヤッキングのことはもちろん、瀬戸内の情報も得たので、これらを考慮して自分なりのやり方を試してみたいと思う。
例えばおかずは自給自足とか…。
点ではなく線へ。そして線から面へ。
今度はリーダーもやらないと、隊長をはじめ、ぼろくそに書いた隊員の皆様に申し訳ないですしね…。