第十章 世界遺産なりたての海を漕ぐ

北海道 知床半島 その一

2005年8月23日~8月31日

 


 

北海道に初上陸セリ!

 
  2005 7 月。日本に 3 つ目のユネスコ世界自然遺産が誕生した。
 知床半島。
 オホーツク海に突き出た約 70 ㎞の半島で、火山活動によってできた山脈が海岸を絶壁にし、その環境の厳しさから大規模な開発を免れてきた。ヒグマやエゾジカなどの大型哺乳類が生息し、秋にはサケが川を昇り、冬には流氷が海獣類や猛禽とともにやってくる。
 その知床半島が世界遺産に認定された時、僕はもう一つの世界自然遺産である屋久島にいた。  
「へぇー、アカツカ君ここに行くのか~、いいな~」
 テレビのニュースを見ていると、居候させてもらっていた畠中さんもそう言って羨ましがった。だが、当の本人もその時はまだ、自分がテレビのブラウン管に映し出されている野生の王国に本当に行く・・・ということにあまり実感が無く、「ぅおー、すげぇな~。俺ここに行くのかよ?」と、ずいぶんと単純な関心しか持てなかった。
 北海道に行く目的からすれば、むしろ知床でなくてもよかったのかもしれない。

  2004 9 月、僕はカナダ・アラスカをカヤック背負って旅をした。
 アラスカやカナダに異常なまでに関心があったからだが、それまでの僕は伊豆諸島や沖縄にばかり行っていた南方系の旅人で、けして北志向の人間ではなかった。
 日本の最北端にある都道府県、北海道も僕は一度も行った事が無かったのだ。
 そんな僕が何故北海道に行く事になったかというと、それは知床を漕ぐためでも、世界遺産になったばかりの知床に行くといったミーハーな理由でもない。  ある人と一緒に漕いでみたかったからだ。
 新谷暁生氏。
 知床で唯一商業ベースのカヤックによる半島一周を今でも行っている人である。そして登山家であり、ニセコ雪崩情報発信者にしてパトロール員でもあり、宿屋の親父でもある。  なによりカヤック発祥の地の一つである、霧と激流のアリューシャン列島を漕ぎ、世界中の船乗りが憧れ、恐怖するケープ・ホーンをカヤックで越えた人物である。しかも関野吉晴氏や月尾嘉男東大名誉教授などのパタゴニア、ケープ・ホーン遠征をサポートしたエクスペディション・ガイドでもある。
  2004 年春にこの人の本、「アリュート・ヘブン」を読んで興味を覚えた僕は、同年 10 月にあった小豆島でのイベントで新谷さんがゲストで来るというので参加し、初対面をする。
 そこで新谷さんと漕ぎ、カヤックやアラスカ・アリューシャン、パタゴニアなどの写真を見せてもらい、実際に面と向かって話をすることができた。
 だが、あくまでそこにいる新谷さんはゲストとしての人であって、なにか遠慮しているというか、話を聞いているだけではこの人の真の実力、迫力、本領はわからないと思い、これはこの人のテリトリーである知床の海に行って一緒に漕がないと話しにならないぞ・・・と考えたのである。
 要するに僕は、知床の海が漕ぎたいから新谷さんをガイドにするのではなく、新谷さんと漕ぎたいから知床に行く事にしたのだ。
 単に知床の海が漕ぎたいのなら、僕は最初から一人で行っています。
 何故、この人に妙に興味を思えたのか?  カヤック界で有名な大御所と漕ぐのなら、新谷さん以外にも漕いでみたい人はいっぱいいる。でもその中で何より新谷さんに関心がいったのは、この人があまり世間一般で言われる「カヤッカー」という物からは逸脱しているように思えたからだ。  
「世間一般の言うカヤッカー」という定義については少々大袈裟というか、わかりずらいものではあるが、アウトドア業界やカヤック業界で商売をしている人達とは別種な感じを受けたのである。
 むしろ言い方を変えればそれは、僕のカヤックの師匠と近いものを感じたのである。
 テクニック云々ではなく、とにかく漕げと言う事、現場主義・実践主義であるという事、焚き火をツアーでするという事、カヤック以外にも副業・本業を持っているという事、なんでも自分で作ってしまうという事、気性が荒い事、愛煙家である事、あまりビジュアルを気にしないという事・・・などなど、本を読んでわかった事でもかなりの共通点があるように思えた。そしてそれは僕の考える『カッコいい男』の図にはまっていたのだ。
 色々考えていてもしょうがない!ここは一つ、新谷さんの縄張りの知床に入って一緒に漕ぎ、その考え方を盗んでやる・・・と、たくらんだのだ。
 もちろん、原始の土地、知床の自然にも興味がなかったと言えば嘘になってしまうだろう。アラスカに行ってまでもサーモンが釣れなかった僕は、カラフトマスがちょうど溯上する 8 月の終わりのツアーに参加する事を旅に出る 2 ヶ月も前に予約したのであった。
 プロローグにあった通り、沖縄に行くという目的と、この新谷さんと漕ぐという事をひと夏に結びつけるため、日本を縦断するというこの旅は生まれたのである。

 

 それではいよいよ、本編開始~!  あいかわらず前置きが長げぇなー俺。

羅臼の町に吹く風は昆布の香りがした

 
 
8 22 日、深夜。僕は東舞鶴駅に降り立った。
 歩いて新日本海フェリーの停泊している港に向かう。カヤックは札幌の友人の家に送ってしまったし、三線は邪魔になると思って小豆島の芳地さんに預けてきてしまっていた。その為バックパックと釣竿、ウエイトベルトだけ持ち、かなり重い部類に入る荷物の積載量だったのにも関わらず、「楽勝~♪」とかいって歩いて向かったのだが、ターミナルに着いた頃には腰がガクガクいっていた・・・。
 チケットを後輩に先に買ってもらっていたのでそのまま乗船。
 フェリーは夜中の 1 時に出港。
 今までに乗ったフェリーの中で、一番施設が整った船で、ビールを飲んでその日の夜はすぐ眠ってしまったのだが、翌日起きてシャワーを浴びに行くと驚いてしまった。 大浴室があるのだ!まるでホテルの温泉である。浴槽に入って窓から見える日本海の大海原を眺めるのは、なかなかの朝風呂であった。
 船自体も大きく、様々な施設が備えてあり、甲板などもきれいにテラスが整備されていた。関西方面の北海道入口だけに乗船客は長距離トラックの運ちゃん以外にも観光客が多く、もちろんライダーやチャリダーらしき貧乏旅行者の姿も多数見受けられた。
 今まで南に旅する人達は見てきたが、北に旅する人達を見るのは初めてだ。妙に浅黒い自分が恥かしい。だが、みんなこれから始まる自由な旅にワクワクしているのが感じ取れて、こっちまでドキドキしてくる。
 夜 9 時。フェリーは小樽に到着した。わずか 20 時間。速いな~この船!
 ターミナルに出ると、その空気の軽さ、冷たさに「ん?」と思う。
 この感じはカナダのバンクーバーに降り立った時とよく似た感じだった。異国に来た時のような感じ。まさに気候が変わった事がよくわかる。
 それにターミナルを降りる時、沖縄ばかり行っていた僕には、いつも暑いイメージしかない。だからタラップを越えて通路を歩いている時に感じるこの冷たさは、なんだか妙な感じがしてならないのだ。
 とにかく、僕は初めて北海道に上陸した。

 バスに乗り小樽駅へ。ここから電車に乗り札幌まで向かう。
 札幌には友人のKさんがいる。その人が迎えに来ることになっていたのだ。メールで連絡を取り合いながらなんとか合流。  
「あははは!相変わらず、すごい荷物ですね~!」
 一発で僕だとわかったようだ。そりゃ当然だろう。旅人の多い北海道とはいえ、こんなふざけた肌の色と大量の荷物で旅をする奴なんてそうそういないだろう・・・。
 この日はKさんとすすきのに行き、ジンギスカンを食べ、彼女の家に泊まらせてもらった。あいにくこの日は平日で、彼女も仕事なので無理に飲むこともできず就寝。僕は久しぶりに見せてもらったパソコンに、気付いたら深夜になってしまっていた。
 翌朝、早朝彼女の家を一緒に出て、僕は札幌駅から知床斜里に、Kさんは職場に向かっていった。スーツ姿の彼女と、山男の格好の僕が同じタクシーに乗ったのは、僕が運転手だったらその共通性の無さに相当疑問に思う事だろう。こいつら一帯なんなんだ?・・・と。
 青春 18 切符を買いなおし、札幌駅の改札口をくぐる。  
「おっ!?旅の始まりだな?気をつけろよ!」
 さすが旅人に大らかな北海道!駅員のかける言葉も気持ちがいい。
 札幌から斜里までは恐ろしい距離がある。
 札幌からまずは岩見沢。岩見沢から滝川と行き、旭川に着く。特急はいっぱいあるのだが、鈍行は 3 時間に 1 本というペースなので、なかなかつながってくれない。各駅で 1 3 時間待ちが普通なので時間の効率はとにかく悪い。
 旭川で久しぶりにマクドナルドに入り、ジャンクな味を楽しむ。しかし食べた後、せっかくだから旭川ラーメンを食べればよかったと後悔する・・・。
 旭川からは快速があるのでこれに乗り込み北見まで行く。
 北見からは一車輌の鈍行に乗り斜里を目指す。電車の中は地元の高校生で埋め尽くされ、カヤックを持っていたらまず無理だったな・・・と胸をなでおろした。
 知床でのツアーはカフナではなく、レンタルすることにしていた。仮に自艇参加できたとして、自分の舟の都合で上陸できなかったり、故障が原因でパーティーに影響が出たりしては、もともこもないからだ。カフナでやる時は単独でいつかそのうちやればいい。
 夜の 8 30 分、小雨混じる中、列車は知床斜里に到着した。
 駅で寝ようと思っていたのだが世界遺産効果か、人が結構いるので町をさまよい、泊れそうな安宿を探す。 3000 円で泊れる民宿を見つけたのでそこのお世話になる。  駅前にあったセイコーマート(北海道にやたらとあるワインが主力商品のコンビニ)で夕飯を買い、宿で食べる。北海道限定のサッポロクラシックに誘われ、金がないのについついビールを買ってしまった。ちょっと苦めで風呂上りに飲んだら美味かった~。
 翌朝、宿の部屋からはオホーツク海が見事に展望できた。海を見て右側にずぅーと続く海岸線。そしてその半島にかかる厚い雲。  
「ついに来たぞ~、知床半島!」
  10 時に荷物をまとめ宿を出る。
 電車ではここまでしか来られないが、知床半島の入口、宇登呂もしくは羅臼はここから車で行くしかない。当初はヒッチハイクで行くつもりだったが、バスがもう少しで出るというのでとりあえず宇登呂まではバスで行く事にした。
 バスが出るまでの時間、近くを流れている斜里川を見に行くと、川の岸近くだけ水の色が変わっていた。よく見ると鱒の群れが帯状になって河口から上流へと向かって続いているではないか!  
「いきなりこれかヨ~、さすが知床はやる事が違うな~オイ!」
 何気に初めて鱒の溯上を生で見て、かなりテンションが高まってきた。街路樹にはハマナスが植えられており、赤いきれいな花と実が北海道という土地を強調している。
  10 55 分、バスに乗り込む。  まっすぐに伸びる直線道路、一列に並ぶカラマツ、広大に拡がるジャガイモ畑、シュガービート、もろこし畑・・・。  あー、まさに北海道!空が広い!!海に出るとマスの定置網が見えるようになった。なんだかもう、見るものすべてが真新しい!昨日までの雨はすっかり止んで、この日はドピーカン!その爽やかさがより感動を高める。
  11 30 分頃、宇登呂到着。昼飯を買って食べ、ヒッチハイクを試みる。
 ところがこれがなかなかつかまらない。ずっと立っていてもしょうがないので歩こうと宇登呂市街から幌別川方面に歩いて行く。そして後から車が来たら親指を立てるというのを繰り返していたら、いつのまにか幌別川まで来てしまった。この川はカラフトマスやオショロコマ釣りで有名な川だが、この時も河口には多数のアングラーが竿を振っていた。
 そのまま丘を登っていくことにした。坂道とカーブが増えるにつれ、ヒッチハイクの成功率は下がるが進まずにはいられない。
 坂道を 20 ㎏の荷物を背負い、 8 ㎏のウエイトベルトを巻いて歩いていると、なんだか妙な気合いが入ってくる。しかしあまり気合いが入ってしまうと車側としては「あぁ・・・彼は歩いて旅しているから拾わない方がいいのだな」と、変な気を使ってしまうので、僕としては都合が悪い。現に後から追い抜いて来たチャリダーに親指を立てて「がんばれ!」というような合図をされた。  
「俺は徒歩旅行者じゃないんだ・・・シーカヤッカーなんだ・・・」
 そうブツブツ言いながら歩いていると知床自然観察センターまで来てしまった。5㎞も歩いちゃったよ・・・。
 せっかくなのでここを少し見学し、その後、知床五湖方面と羅臼方面にわかれる道があるので羅臼側の入口に立ち、ヒッチハイクを試みるが、ほとんどが観光客のレンタカーで満車だったり、無視したりするだけ。一台停まったと思ったら道間違いで知床五湖に行きたいというので変わりに教えてあげる。なんだかこれでやる気をなくしてしまい、まだ羅臼行きのバスがあるのでそれで無難に行く事にした。
 知床峠を越えて羅臼の市街に向かう。
 知床峠からはきれいに羅臼岳が見え、羅臼の方角には海の沖に島が見えた。国後だ。  
「こんなに近いのか~、国後島って・・・」
 北方領土の一つ、国後島(くなしりとう)は、日本と最も近いところで 20 ㎞たらずしかないという。あまりの近さにそこがロシアだとは信じられない。まだそこは日本だと信じたい距離だ。
  3 時過ぎ、羅臼に到着。少しブラブラしたのち、新谷さんに電話を入れた。  
「おー、どうもどうもシンヤです。ちょうど羅臼に来たところです。知床倶楽部っていう喫茶店がありますからそこまできてください」
 新谷さんはいつも恐縮した感じで電話に出る。この時も親子ほども年の差がある僕に敬語で対応してくれていた。
 知床の情報発信基地でもある『知床倶楽部』に行くと、熊みたいな男の人がコーヒーを飲んでいた。久しぶりに会った新谷さんは、昨年、秋に会った時よりも顔が締まり、野生味が出ていた。
 とりあえず、僕にとっては久しぶりだったが、新谷さんは覚えていないだろうから自己紹介的な話をしてコーヒーを飲む。小豆島の芳地さんの所から来ると言っていたので、かろうじて覚えていてくれたようだ。
  15 分ほどで席を立ち、新谷さんの車に乗って羅臼よりさらに北にある相泊、「番屋北浜」に向かった。  
「番屋北浜」は名前の通り、羅臼から北に 20 ㎞ほど行った北浜にある素泊まり専門宿だ。もともと鮭番屋だった建物を改築したもので、風情があっていい。
 車から降りると潮風に乗って昆布の匂いが漂ってくる。車道と海岸の間にあるゴロタ浜には昆布番屋が立ち並び、きれいに平らに並べられたゴロタの上にたくさんの昆布が干されていた。羅臼昆布の産地だということを実感する。 8 31 日が昆布漁の最後なので、ラストスパートなのか、どこの番屋も大量の昆布が干されている。
 番屋に入ると管理人の人とお客さんが夕飯の支度をしているところだった。新谷さんと僕は明日からのツアーのしたくをし、その後、御呼ばれされる事になる。
 お客さんは 4 人。そのうちの一人は能登の料理人らしく、この日は朝、定置網を揚げるのを手伝った際にもらったカラフトマスで、えらく豪勢な料理を作っていた。マスのチャンチャン焼にイクラのしょうゆ漬、そして何より最高に美味かったのがカラフトマスを酢でしめて握った鮨!これに大葉をきざんで乗せ、さらにイクラをのせて食べるのだ。イクラのコクと、サッパリとしたシメマスが口の中で融合して、マッコト美味い!
 なんだかお酒ももらってしまい、いい気分で飲んでいると、番屋に見たことがあるおばさんがやって来た。
 隠岐で会った C さんだ。
 僕の次のツアーに参加すると言っていたが、それだとその後の予定がたたないからと、日程を繰り越して来たらしい。どうりで相泊温泉で見たことある車が停まっていると思ったのだ。
 懐かしい顔もそろい、この日は遅くまで食べて飲んだ。
 
サッポロクラシック、タマラン・・・
 

第72回、知床EXPEDITION

 


 

ガッシュ

 次の日、新谷さんは朝早くから女満別空港までツアー参加者の送迎に向かった。僕はCさんと昨日の料理人のおじさんと相泊温泉に行き、昼食を食べたのち、Cさんとともに本日泊る予定のもう一人のガイド、杉さんの経営する民宿まで行く事になった。
 Cさんの車に隠岐以来、再び乗せてもらい宿のある薫別まで行く。途中、時間があるので羅臼の道の駅でサンマの刺身などを購入し、二人で食べる。今年初めて食べるサンマだけに美味い!新鮮なサンマの刺身ほど値段と味が比例しない物はない。
 薫別の杉さんの宿、「万月堂」は薫別温泉に行く途中にある。ひっそりとした場所に突然開ける牧草地が目印だ。僕らは場所がイマイチわからなく、偶然道を聞いた小学生2人が杉さんの息子さんだった。
 宿に着き、車から降りると同時に妙にナレナレしいアイヌ犬が駆け寄ってきた。遊んでやりたいのは山々だが、あいにくの雨で地面はぬかるみ、彼の足はタチの悪いスタンプになっていて、関わりたくない。
 僕が困っていると宿の中から声が聞こえた。 
「コラッ!!ガッシュ!!おーよく来たね、早く入って」
 宿に通され、洋風のリビングにあるカウンターに座り、コーヒーを頂いた。
 ガイドの杉さんと、少しの間、談笑をしていると、ほどなくして女満別からお客さんを乗せた新谷さんの車も到着した。お客さんが全員下りると、宿の庭にあったカヤックをキャリアに積み、何艇かはラダーを取り替えたり修理したりするのを手伝った。
 ツアーに使うのはシングルが「パフィン」と「不知火」、タンデムが「シースケープ」である。新谷さんと言えば、白いパフィンと言うイメージが何故かあり、西表のツアーでパフィンを使っていた僕にも懐かしい舟だった。ツアー前にラダーをいじるのも西表の時代を思い出す。
 カヤックを積み終わると新谷さんはそれを出発地の宇登呂に持っていくついでに買出しをしてくると言って、再びいなくなった。お客さん達と共に待つことに。
 今回の第72回目の知床EXPEDITION参加者はガイド2名、客が9名の計11名のツアーとなる。
 メンバーは新谷さん、杉さん、俺、隠岐であったCさん、料理人PACEさん、その友人のヤジロベエ的パドリングをするグッさん、釣り師M井さん、ガタイの良いM本さん、アラファトさんとその奥さん、物静かだったWさんという構成である。ちなみにアラファトさん夫婦と,杉さん・Wさんはタンデム、残りはみんなシングルとなる。
 ワインを飲み、夕飯のカレーも食べてしまおうかと言う頃、新谷さんもちょうど帰ってきてみんなで夕食となった。
 今回は台風が近づいていたので大事をとって杉さんの家に泊まったが、本来なら宇登呂のキャンプ場で一泊する予定だったようだ。だけどおかげで新築の快適な宿で眠る事ができた。そして何よりこの時の心配が嘘のようにこの後、ツアーは快適に進む事となるのである。
 

一日目
宇土呂(海岸キャンプ場)→マムシ浜

 
  8 27 日。朝 5 時起床。
 トーストの朝食をみんなでとったのち、新谷さんのハイエースと杉さんのハイラックスに乗り、宇登呂組と、北浜に置いてある荷物をとりに行く羅臼組に分かれて移動する。僕は直で宇登呂に向かう。
 羅臼側ではあいにくの雨だったが、知床峠を越えると見事に天気は回復、海浜キャンプ場に着く頃には見事な快晴になっていた。知床の山がいかに高いかを物語っているようだ。
 みんなでカヤックを下ろし、並べるとやる事がなくなってしまった。
 昼食はみんなで後ろにある大型お土産センターにある食堂で食べる。ラーメンでいいやと思って注文したのだが、あるのは「オホーツクラーメン: 1000 円」という豪華な物。ラーメン一杯に 1000 円は高いし、どうせこんな観光客目当ての場所だからショボイ物に違いないと思っていたのだが、出てきたラーメンはボリュームもあり、ボタンエビ、ホタテなどがのって予想を裏切る美味さで、かなり満足した。
 しばらくして浜に戻って遊んでいると、新谷さんと杉さんの車もやって来て、いよいよ出発ということになった。
 当初、僕はパフィンに乗っていきたかったのだが人間の関係上、僕は FRP 製シングル艇の不知火に乗ることになった。コンパクトな舟だが、安定感もあってなかなかよろしい。見た目によらず荷物も入り、今から始まる旅にも信頼できそうだ。
 パドルは憧れのワナーのアークティックウィンドーを使えることに。あの細長いパドルの事だ。新谷さんはナローブレードのアンフェザーを推奨しているのでツアーでも特にこだわりがない限りはそうしてもらっている様だ。他の使用パドルもリトルディッパー。僕はもともとグリーンランドパドルにしてからナローのアンフェザーなのでちょうどよかった。
 午後 2 時頃、宇登呂海岸キャンプ場出発。
 海はベタ凪、風はほぼなし。最高のコンディションである。すぐにカヤックはプユニ岬を過ぎ、遊覧船が走り回るフレペの滝を過ぎた。
 このあたりは岩尾別川の河口を除けば知床五湖の断崖まで、海岸線は絶壁が続く。海上から 100m 近い絶壁を見上げると、所々から硫黄を含んだ沢水が落ち、海鳥の糞と共に、岸壁を白く染めている。海鳥特有の生臭い糞尿の臭いが鼻をつく。
 だがその臭いが気になる以上に目の前に広がる光景は、予想をはるかに上回るものだった。
 知床に来るまで、僕は西表島、屋久島、隠岐ノ島など、かなり自然の濃いフィールドで漕いできた。とくに隠岐では「いくら知床でも、これ以上にスゲェ海岸線は用意してないだろ~」と、浅はかな想像力を露出していた。確かに隠岐の西ノ島、国賀海岸はとんでもない地形をしていて、あれはあれでものすごい迫力があった。
 ところが知床では、それとは一線を画す迫力があるのだ。
 尋常じゃない海鳥の数、流れ落ちる水、山に立ち込める霧や雲。
 ここは人の立ち入ってはいけない場所、聖域のような雰囲気なのだ。はるか崖の上に見える草原や森林が天上界に見える。青黒い海上から見上げると、下界から見上げているようでますます臨場感がある。  
「スゲェゼ・・・知床」
 一人顔をニヤけさせながら漕いでいると、どうも自分だけではないようで、みんな必要にサングラスの下でニヤけているように見えた。  
 
 

 

 

「…これもまた、知床だ。」
 一人だけ、あまり浮かない顔で新谷さんが漕いでいた。どうしてなんだろうと思いつつも、その時は遊覧船の多い海域なだけに少し神経を尖らせているのだろうと思っていた。でもこの時の顔の意味は後々、わかることになる。
 
 五湖の断崖が終わるか終わらないか・・・という場所でこの日はビバークする事になった。通称マムシ浜といい、実際マムシが出るというのでこの名前を付けたらしい。断崖に囲まれたゴロタ浜で、噂通りのゴツゴツした石のみの浜でキャンプするようだ。  
「オゥッ!ヴォゥッ!」
 新谷さんが浜全体に響くような大声でそう叫ぶと浜に上陸、それを合図に次々にみんな上陸していった。上陸前の一声は熊への合図だ。「お前らの住処にお邪魔するぞ!!俺らは今日ここに泊るぞ!!」という意味をかねている。頭がいい通常の熊なら、これでとりあえずこちらを意識する。あとは熊しだいだ。
 上陸すると瞬く間にタープテントが張られ、焚き火の用意がされ、カヤックの中身が出されて食料はまとめられた。
 そして各自テントを張り終えた頃、杉さんがワインの入ったビニール袋をポールにぶら下げ、ワインバーがオープンする。各自マグカップをとり、ワインを注いで行く。
 約 3 時間の漕行。海もいいし、天気もいいし、何の問題もないパドリングだった。
 各自思い思いに岩の上に転がりワインを飲む。新谷さんもこの場所はお気に入りのようで「ここ、いいだろ~」とご満悦だ。夕食を食べ終わると、この日は早めに寝る事となる。
 僕は「マッピー」という不幸なあだ名をつけられた M 本さんと一緒にテントに入ることとなった。ゴロタの上に流木の材木を乗せ、整地した上にテントを張ったのでそれほど岩は気にならなかった。
 

2日目
マムシ浜→ルシャ→蛸岩→海賊湾→落合湾

 
 この日はかなりの距離を漕ぐという事で早朝 4 時起床。焚き火で焼いたトーストとコンデンスミルクを入れたコーヒーで朝食をとる。
  5 時には出発する予定であったが、ここで予期せぬアクシデントが発生。不安定なゴロタ浜で寝たせいか、アラファトさんがテントから出た瞬間、ギックリ腰になってしまったのだ。
 しばらく動けそうもないので出発は遅れ、やっと歩き出せるようになった 6 20 分、出発となった。このため、僕のシングル艇に奥さんが乗って、僕がアラファトさん達の乗っていたタンデムに乗ってアラファトさんと行く事になった。
 マムシ浜にいたころから山から雲が降りてきたかのように厚い霧に囲まれていたが、それは海上に出ても変わらなかった。海が静かな分、なんだか神聖な雰囲気の中、カヤックを進ませる。
 霧の中から水が落ちる音がしてきた。知床観光船の目玉、カムイワッカの滝だ。
 霧であまりよく見えないが、そんな中、新谷さんは滝の方角に向かって手を合わせた。
 今でこそ観光地として景観優美なこの滝は多くの人が船で観に来るが、ここは戦時中、在日朝鮮人の人達が硫黄を採掘する為に強制労働されていた場所らしい。そして多くの人達が亡くなった様だ。  西表島のウダラ炭鉱も多くの台湾人が連れてこさせられ強制労働をさせられたというが、日本全国、どこに行っても同じような話を聞くものだ。日本人の悲しい性を知るようで嫌になる。そしてそんな話はこんな辺境の地ほど色濃く残っているからやるせない。僕も手を合わせ、先を急いだ。

 
 
 

 

 カムイワッカの滝を越えた辺りでやっと霧が晴れ出した。海は昨日以上にベタ凪、快晴。否の付け所がない。
 ルシャの手前で上陸。トイレ休憩にして軽い行動食をとる。
 ルシャという地名を聞いたことがある人もいるかもしれない。「ルシャだし」と呼ばれる突風はかなり有名だ。
 半島を縦断するようにそびえる山脈によって知床は羅臼と宇登呂側で天気が全然異なると先ほど書いたが、例外的にこの山が切れる場所がある。それが知床岳と硫黄山の切れ目、ちょうどルシャ川が流れ出る場所なのである。山に遮られ、たまった風はここから一気に吹き降ろされる。その風はエンジンつきの漁船さえもひっくり返すほど、強風だというのだ。
 そんな情報を聞いていたので、かなりビビりながらルシャ沖を漕いでいったのだが、何の心配もないほどに風はなく、なんなく通過。逆に味気ないくらいだった。
  10 40 分、蛸岩に到着した。名前の由来にもなっている蛸そっくりの岩によって入口を守られた湾内は、かなり穏やかだ。ゴロタ浜に上陸し、焚き火を起こして昼食を作り、食す。ものの 30 分ほどでうどんが完成し、ものの 10 分でなくなってしまった。
 朝早かったので皆さん昼寝。出発したのは 12 時を過ぎた頃だった。
 上陸した時から気付いていたのだが、蛸岩のすぐ脇にはヒグマの親子がいた。カヤックに乗りながら沖で見ていると、小熊が岩陰に隠れ、親熊がこちらを眺めているのがわかる。  
「おーッさすが知床!野生のヒグマが見られるなんてな~」
 グレイシャーベイに行った時も熊はウンコしか見ていないので感動もひとしおだ。初めて見る野生のヒグマは思ったよりも毛の色が赤ではなく、ツキノワ熊と変わらないほど黒く感じた。メスだったからだろうか?
 湾から出ると今度は落差 30m 近い、直接海に落ちるカシュニの滝が見えた。
 海は穏やか、水量もまぁまぁ。となると、やはり下をくぐりたい♪
 シングル艇に乗っている C さんやグッさんなどは楽しそうに通り抜けているが、タンデムの僕にはチト厳しそうだ。でもくぐりたい・・・。嫌がるアラファトさんを説得し、半場強引に突入!滝の水が落ちる時にできる風でカヤックが岩に張り付いてしまい、なかなか苦戦を強いられるも、何とか脱出成功!さすがに北海道だけあって滝の水はメチャクチャ冷たかった。
 しばらくパドリングを繰り返していると、またクマを発見!今度は若いオスのクマのようだ。河口に居座り、昇って来るマスを必死になって捕まえようとしている。が、見ていてイライラするほどヘタクソだ。何匹もバラしてやっと捕まえたと思ったら、こちらに目をやるや否や、慌ててマスを放り投げて、走って薮の中に逃げ込んでしまった。 その時、あまりの慌て様にゴロタ石に足をとられ、何度も踏み外しながら走っていく姿は滑稽そのものだった。どうやら僕らに気付かずに一心不乱になってマスを狙っていたものの、僕らに気付いてビックリしたようだ。その慌てぶりが可笑しい。  
「おっかしいな~(笑)。でもあれが正しいヒグマの行動だよ」
 最近のヒグマは人間を見ても逃げ出さない者もおり、彼らは「新世代ヒグマ」と呼ばれ、環境省も注意を呼びかけている。風景の一つと感じているのか、あまりにも人に慣れすぎてしまっているのか、人里の近くに現われたり、車道に出てきて人と遭遇する率が高くなっている。登山道に現れ、登山客を追いかける困った奴もいるそうだ(俺が当事者だったら泣いちゃうくらい嫌だ!)。
 マスを置いて逃げてしまった彼には申し訳ないが、人とクマの関係はこのくらいシビアな方がお互い良いようだ。
 クマに夢中になっていたが、ここでいつのまにかルアーを投げていた M 井さんが何かをかけた!竿が弓なりに曲がってカヤックがどんどん引っ張られている!
 実は先ほどから川を見つけてはその河口でルアーを投げているのだが、コツコツあたる物の、なかなか乗らず、いつになったら釣れるのか、だれが一番最初に釣り上げるのかと競っていたところだったのだ。
 新谷さんが手伝って M 井さんがファーストフィッシュを揚げた。雄のカラフトマスだ。  この川の河口は浅場になっていて、岩盤の上をマスが背中を出して泳いでいるのが見える。ここぞとばかりにその方向にルアーを投げると、コツコツとマスに当たると同時に、いきなりグイっと竿先が持っていかれる時がある。この瞬間を狙って一気に合わせると、ものすごい勢いで竿が引っ張られた!  
「乗った!!」
 緩めにしておいたとはいえ、ドラグからギュンギュンラインを出してマスは抵抗する。ゴッゴッと首を振る時もあれば、手当たり次第に走り回る時もある。まさにマス類の暴れ方だ。アラファトさんにカヤックを寄せてもらい、一気に巻いて手元に寄せる。
 やっている時から気付いていたが、やはりスレだ。ハンドランディングを試みるが危なっかしい。てこずっていると杉さんが寄ってきて、スカリを広げてネットランディングしてくれた。まだ体がギンケしている雄のカラフトマスだった。  
「オッシャー!!」
 やっている時から「ウォ!」とか「ばれるなよぉー」とか「ついにやったぞ、こんチクショーが!」など、独り語をブツブツ言っていたのだが、それだけ無意識に興奮し、自分の世界に浸っていたのだ。この一匹はかな~り、嬉しかった(当初はメスだと思っていた事もあるが・・・)!
 この場所で M さん、杉さん、そして僕がそれぞれ一匹ずつ釣り上げ、計 3 匹が今日の夕飯になる事となった。

 
 

 

 そこからしばらくして観音岩を通り、岩に囲まれた深い入江にはいていく。
 通称・「海賊湾」と呼んでいる場所だ。沖を漕いでいたら、まず気付かないだろうと思える狭い入口で、細く深い入江の先には沢が流れ込んでいる。そのためここの水は恐ろしく冷たく、ものすごい透明度がある。カヤックの下をカラフトマスの群れが通過するのが見えた。前回のツアーではここを漕いでいたらパドルにマスがバタバタぶつかってしまうほど溢れていたという。そういう現場に居合わせてみたかった~。
 ここで遊んだあと、しばらく行くと同じような入江があり、そこに上陸する。この日のビバーク地である通称・「落合湾」だ。
 マムシ浜のように崖に囲まれた場所だが、規模が小さく、箱庭のような場所だ。まさに秘密基地のような場所で、とても面白い場所だ。さらに湧き水まであるというのだから申し分ない。
 入江のふん詰まりにある流木を拾ってきて薪にし、釣ったマスを杉さんとさばく。身はチャンチャン焼、粗は汁にする。
 大体夕食の準備が済んだところで、新谷さんの許可を得て潜りにいく。
 せっかく知床まで来たのだ。どうせなら海底の様子も見たかった。荷物の都合でフィンこそ持ってこれなかったが、ウエットスーツとウエイトまで、この為に持ってきていたのだ…!
 北海道の原始の海に飛び込んだ。
 水温は体感で 17 18 ℃といったところである。透明度は浅場ではいいが、縣濁物が多くて深場までは見ることができない。しかし入水するとすぐにスガモとガラモが生い茂り、その茂みの中にポツポツとバフンウニが見えた。さらに沖に向かって泳いで行くと、岩がゴロゴロしており、その岩全部を覆い尽くすばかりのバフンウニが確認できた。まるで栗畑のイガクリだ。
 魚はいないかと動く物を探すが、海底は静まりかえっている。
 岩が積み重なったような浅場から、ある程度沖に行くと、一気に深くなる。フィンがあればその先まで潜っていき海底を確かめたかったが、この時は5 m が限界だった。知床の海の写真を見ると巨大なカジカやカレイ、ホッケやコマイ、ハナサキガニなどが写っているが、この時は岩下にガヤと呼ばれるエゾメバルの群れと、小さなカジカの類、アミしか動く物は見ることができなかった。
 浜に上がると夕食の準備が完了して、すぐにでも食べられる状態になっていた。
 この日の夕飯は知床 EXPEDITION 名物の三色丼、マスの味噌汁、チャンチャン焼。三色丼はイタリアンシェフである PACE さんがちょいと手を入れてイタリアンテイストになっていた。「美味いうまい」とかなりの勢いで食べてしまった。
 その日の夜はパラパラと小雨が降ったが、さほど気になるものでもなかった。焚き火の前で酒を飲んでメンバーと談笑する。一番年下の僕はみんなのいじられ役だ。飯を食べたあと横になっていた新谷さんも9時頃に起き出して話に加わってきた。
  PACE さんがラム酒をみんなに振る舞い、ハープで「ベッサメムーチョ」を吹いた。その寂しげな音色と甘いラムの匂いの中、知床の夜は更けていった。
 

 

 

3日目
落合湾→文吉湾→知床岬→赤岩→滝ノ下

 
 6時起床。昨日の残りの味噌汁に飯を入れた雑炊が朝食だったが、これがまたかなり美味くて、おかわりしたいくらいだった。
 8時頃、出発。今日はアラファトさんもだいぶ調子いいみたいなので従来通り、僕がシングル艇に乗っていくことに。
 潮が引いて浅いスガモが生える海を歩き、ある程度行った所で乗り込む。
 今日はいよいよ知床の核心部、知床岬を越える。
 自ずと気合いも入るが、これまた昨夜の雨が嘘のような晴天。海はベタ凪、うねりもなし。 知床なのに、こんなに天気がよくていいの?と、思わず疑ってしまうほど出来すぎていた。
 鏡のような海を北上し、岬の先端にある唯一の人工物、文吉湾の沖堤防の前まで来る。ここは羅臼漁師の水産基地みたいな場所で、この沖堤防は冬の流氷から港を守る為の物らしい。突然大自然のみの環境に現れるコンクリートの壁は、ものすごい違和感を感じるが、冬の漁師の気持ちになってみないとこの堤防のありがたみはわからないので何とも言えない感じだ。
 この堤防の手前は浅いので港に入る漁船は予想に反してものすごいスピードで走ってくる。船団を横一列にしていっせいに渡ってしまう。
 文吉湾を越えてしまえば、あとは沿岸域を漕いで行く事になる。
 知床半島先端は上陸、立ち入り、キャンプなどは禁止されている。その為どこにも寄ることなく岬を越えてしまうが、山脈が海岸にたどり着く前に、いったん平地を作って絶壁となって海にたどり着く地形はとても奇妙で面白い。知床独特の地形だが、後日千島列島の島々の写真を見ると、似たような地形になっており、ここから先が千島だと物語っているような感じだ。
 海岸線からしばらくは沖縄のリーフのように浅場が続いており、そこをカヤックは漕いで行く事になる。岬の先端を越えたあたりから急激に昆布が増えてきた。正面には国後が霧のせいか、山の頂上付近だけを見せている。
 知床灯台を拝みつつ、新谷さんの後を追いながら漕いでいると、あっという間に岬を越え、赤岩湾にたどり着いてしまった。スガモが生い茂る浅場を漕ぎ、浜に上陸する。珍しく砂利浜だ。
 ひざ下くらいの場所に漂っている昆布をみんなで拾って、あまりの大きさに記念写真を撮り、ついでにうどんに入れて食べてしまうことに。ダシもでるし、一石二鳥。柔らかくて普通にうまかった。
 しばらく休憩だというので近くにあった廃屋の番屋を探索する。柱だけになっても、中には生活用具や漁具がいっぱい散乱しており、そこに日光が差し込んで、なんだか不思議な光景だ。
 番屋の裏にまわると、思わず「おぉ!!」と、叫んでしまった!  大量のビン球、それも大中小様々な大きさの物が山積みされているのである!中には裸ではなく、ロープで結ばれた状態の物もある。沖縄であれほど探し回って手に入れたビン球が、無造作に大量にあるのだ。まさに夢のような光景!せっかくなので2~3個拝借し、お土産に持って帰ることにした。ビーチコマーとしてはちゃんと漂流してきた物の方が価値はあるが、こんな無傷な物も悪くはない。
 ビン球といえば、沖縄では「幻のビン球」と呼ばれていた、樽型のビン球があるのだが、驚いた事にこれを僕は宇登呂のお土産屋で売っているのを発見してしまったのだ!これにはちょっと引いてしまった・・・。幻でも何でもないじゃん。一個 600 円で買えるのかと思うと、なんだか虚しくなってしまった。しかしまあ、こういうのは自分で海で発見するから意味があるものだと思うので、「いずれどこかで拾ってやる!」と、意固地になるのであった。
 赤岩からは、もうあっという間といった感じで、兜岩を越え、前方に滝が見えたと思ったらそこが上陸地点であった。
 途中、昆布漁の漁船と何度かすれ違いその度に新谷さんは漁師に挨拶して行く。いよいよ羅臼側の海に来たのだな…と思う。
 上陸地、滝ノ下は男滝、女滝の二つの滝が落ちているゴロタ浜で、流木が少ないので上陸そうそう、みんなで薪を集め回った。男滝の河口には大量のカラフトマスが岸辺ギリギリの場所に集まっており、背中を出して泳ぎ回っている。ここで釣らなきゃ、どこで釣るといった感じだ。
 ここに着いたのが 12 時過ぎと、かなり早かったので時間はいっぱいあった。杉さん、M井さん、僕、アラファトさんの 4 人でルアーを投げてマスを狙う。
 基本的にカラフトマス狙いでは、赤いスプーンがよく使用されているようで、他の三人はみんなそれでやっていたが、僕は持ち合わせがないのでミノー(ショアラインシャイナー R30 )のレッドヘッドを使っていた。こいつをおもいっきり遠投し、やや速めに巻いていると、何度かコツコツとアタリがある。スレかもしれないが、魚信があるかないかで、やる気が違ってくる。
 そんな中、何回かキャストしていると竿先が持っていかれた。ここぞとばかりに合わせると、しっかりフッキング!竿を立てて巻きにかかると水面でものすごい勢いで炸裂してマスが現れた。  
「よシッ!口にかかってるぞ!」
 度々ジャンプをし、よこっぱしりするマスの引きを堪能しながら後退し、打ち上げる波にあわせて魚を引きずり上げる。鼻が曲がっていない、今度こそメスだろ、オイ!  
「よし、貸してみろ」
 野菜を切っていた新谷さんが釣ったばかりのマスの腹を割いてみせた。ぽろぽろとルビー色の宝石がこぼれ落ちる。  
「やったーッ!イクラが食えるぞー!!」
 知床に行ってマスを釣り、イクラどんぶりを食べるという、僕のささやかな夢はどうにか叶えられそうであった。この後、アラファトさんもメスを釣り、イクラは何とかみんなで分けられるほどの量は採れそうになった。
 僕らがマス釣りに興じ、イクラに興奮している頃、 M 井さんは一人沢に入りオショロコマを釣っていたという。せっかくだからと僕も仕掛けを借りて川虫を拾って餌にしてやってみる。
 渓流釣りの繊細さとは程遠いほど、簡単に釣れてしまった。それもとても岩魚がいるとは思えないような海岸からすぐの、沢水が流れるような所でである。シチュエーションとしてはザリガニ釣りに近い…。
 初めて見る本物のオショロコマはドジョウみたいに小さかったが、赤い腹に白い帯が走り、朱色の斑点がある姿はきれいだった。
 仕事の関係で大西洋に分布するブルックトラウトは見た事があったが、太平洋のブルックがドリーバーデン(オショロコマ)であると思うほど、よく似ていると思った。
 夕食は出発前に食べたのと同じカレー。しかしこの新谷さんの作るカレーが、かなり美味い。イクラを食べるのを忘れてしまうほどカレーに夢中になっていた
 釣ったマスは腹開きにして塩を擦り込み、しばらくぶら下げて置いておき、その後網で挟んで焚き火で炙って燻製を作っていた。
 この日は夕食後、疲れてしまったのか9時前にはテントの中に入って横になってしまった。その後復活していつものように飲もうと思っていたが、どうも起きれなくて結局朝まで寝てしまった。
 

 

 

4日目
滝ノ下→ペキンノ鼻→カヤックおじさん→化石浜→崩浜

 
  6 時起床。寝たのも早かったが、いつもよりかなり寝たような気がする。というか寝た。
 この日もどういう訳か天気はいい。空はかなり青い。こんなんでいいのだろうか。しかし今日は羅臼側の難所、ペキンノ鼻を通るので天気が良いに越した事はない。
 朝っぱらからウエットスーツに着替え、河口にたまっているカラフトマスの水中写真の撮影を試みる。さすがに近づくとマスの群れは散ってしまうのでゆっくりと、静かに近づきカメラを水中に入れる。まるでクマになったような気分だ。気付いたら背後に本物のクマがいたっていうんじゃ洒落にならんけど。
 あいにく透明度は良いものの、海水と淡水が混じってモヤってしまい、ピントが合ってくれなかった。残念だ
 昨日の燻製は案の定、夜の肴になってしまっていたが、若干残っていたらしく、クリームチーズと混ぜたピューレとなって朝食のトーストと一緒に出された。メチャクチャうまい!今度、家でもやってみようと思った。
 8時10分出発。
 9時頃、ペキンノ鼻の前あたりまで来ることができた。さすがにここまで来ると風が強くなってきた。新谷さんの指示のもと、一列となってペキンノ鼻を越える。風が強いので帽子が飛ばされないよう、脱ぐ。
 風速8~10mといったところか。カヤックで漕いで行くにはちょっときつい向かい風ではあったが、漕げないレベルではない。回ってしまえば穏やかな物で、ヒカリごけの記念碑がある前のゴロタ浜に上陸する。
 ここからペキンノ鼻に登り、その上にある鳥居を目指す。
 これは新谷さんの著書にもあるが、羅臼の漁師が作った物だと言われている航海安全のための神社である。新谷さんは毎回、ここを訪れると手を合わせていくらしい。今回も僕らメンバーで航海安全を祈った。
 ここは景色がとんでもなくよかった。まるで高山の上にいるような景色で、トウゲブキの草原にピンク色のハマフウロが咲き乱れ、岬を走る風が頬を掠め、何とも気持ちがいい。草原の中に埋もれて横になると風が遮られて静かだ。エゾゼミの鳴く声だけが聞こえる。陽射しが照りつけてウトウトとしてきた。
 

 

 

 ところが次第に前方(北側)から霧が風で運ばれてきて、ガスって来た。風も強くなってきたのでそろそろ降りようとみんなで岬を降り、10時半頃出発する。
 あたりは深い霧に囲まれてしまった。風も強く、新谷さんのナビゲーションを頼りに一列になって岩礁帯を漕ぎぬける。
 ガスが抜けた頃、化石浜に上陸。昼食をとる。
 12時50分頃、羅臼側の観音岩を通過し、今日のキャンプ地である崩浜に上陸したのは13時を過ぎた頃だった。フィヨルドのような絶壁が背後に迫る場所で、景観がすこぶる良い。はるか上にある崖上には森があるのがわかり、まさに天上界と下界といった感じだ。 
「みんな待っていてあげるから、あかちん頂上まで行って写真撮ってくれよ~」
 いつからか、僕は「あかちん」と呼ばれるようになり、PACEさんも無茶を言うようになってきていた・・・。
 ここは今までのキャンプサイトの中でも一番のゴロタ浜で、それまでは番屋の廃材やコンパネなどを敷いて整地できたのだが、ここにはそれらは見当たらない。仕方ないのでマッピーさんと2人でゴロタ石をパズルのように組み合わせて整地する事になった。都合がいい事にゴロタは平たい形をしているので敷き詰め易く、助かった。
 グッさんは、この知床ツアー中、ずっとテネシーハンモックで寝ていた。これまで、落ちていた流木や岩、岩盤などを利用してなんとかハンモックを吊るしていたが、さすがにこの場所は流木も少なく困った様子だった。それでも何とか流木をかき集めてきて無理やりハンモックを吊るし、まるでA&Fの営業マンのごとく、根性でテネシーハンモックを使い続けた。本当、執念というか、天気がよくてよかったと思う…。
 各自テントが設営し終わった所で、コーヒーを煎れて一服する。
 焚き火の周りで談笑しながら夕飯の準備をし、この日はずいぶんと早く、17時には「いただきマス」をしていた。献立は炊き込みご飯とニンニクベーコンスープ。
 野営は今日で最後だ。焚き火が恋しい。まったりと時間が過ぎて行く。
 昨日早く寝てしまったせいか、この夜はずいぶんと早くから僕は飲み始めていた。最後の夜だけに隠し持っていた酒も持ち出され、焼酎、バーボン、泡盛、ラムなど、妙にアルコール度数の高い物ばかり出てくる。少なくなったビールをチェイサー代わりに飲む。
 新谷さんとフェザークラフトの舟の話をし、そこからアリューシャン、千島列島、パタゴニアなどの話に移行して行く。
 千島列島の話をしていると、白瀬矗の話になり、次第に冒険の話になる。何故、千島列島の話なのに南極探検に出かけた白瀬中尉が出てくるかと言うと、まぁ話しが長くなるので自分で調べてください。
 アラスカのジュノーに行った時にアリュートのカヤックのすごさを知った僕は、もともとイヌイットやインディアンの文化に興味があるといった文化人類学的な興味も手伝い、その現地でカヤックを漕いでいる新谷さんと話をするのはとても興味深かった。そして、「そのことに関心があるならこの本を読め、これが良い」、など本なども紹介してもらい、非常にありがたかった。
 新谷さんの新しい著書、「バトルオブアリューシャン」で、アリューシャン遠征やケープホーン遠征の事は詳しく書かれているのだが、この時はまだ読んでおらず、生の新谷さんから聞く遠征の話は、ものすごいインスピレーションを僕の中に生んでいた。
 そんな真面目な話もしていたが、後半はみんなで訳のわからない話をし、ほとんど酔っ払って何を話したかは忘れてしまった(笑)。
 12時頃、自分がかなり泥酔している事に気付き、「やばいやばい」とテントの中に潜りこんだ。夏とはいえ、冷たい知床の夜に、酔っ払ってシュラフに包まるのは至上の気持ちよさであった。
 

 

 

 

5日目
崩浜→相泊温泉→北浜(番屋北浜)

 
 朝起きると気持ちが悪い・・・。酒が残っているのがわかる。完全に二日酔いだ・・・。
  5 時半起床。昨日のごはんに茹でたソーセージを入れて炒り、それをパンに挟んで食べる。この時は二日酔いと言うよりは、まだ酔っ払っている状態だったので飯も普通に食えた。残りそうだったので鍋を洗うついでにがっつく。これがよくなかった・・・。
  8 時前に出発。背後にそびえる崖の頂上付近には雲が覆い被さり、ところどころではガスって前が見えないが、海は鏡のように滑らかだ。とろん…とした油のような海面を撫でるようにカヤックを進める。
 この日は 8 31 日。コンブ漁最終日である。
 周辺にはたくさんの昆布漁の船が出ており、漁師は箱メガネで海底をのぞき、長い二股に分かれた棒でコンブを挟み、ネジり採っている。最終日にものすごい凪ぎになり、漁師も機嫌が良いようだ。近づいて挨拶をすると手を休めてこちらに話し掛けてくれる漁師もいる。
 それにしても漁師の年齢がバラバラだ。大概の地方では漁師は高齢の方が多いが、この羅臼は若い漁師も多い。中には僕と同じくらいの年齢の若者が一人で船を動かしていたりする。
 若い後継者がいる漁村というのは、漁だけでも喰っていけるということだ。豊かな羅臼の海を自ずと物語っている。
 漕いですぐ、浜には番屋の数が急に増え、電線が見えるようになった。
 犬が「ワンワン」と吠えているので見ていると、突然バクチクがなった。そして番屋の中からお姉さんが出てきて「シンヤサーン!ガンバってー!!」っと、声援を送っている。その声援も嬉しかったが、爆竹の音に驚きふためるイヌの姿が滑稽で面白かった
 カモイウンベ川河口の大勢の釣人を遠巻きに眺め、小さな岬を回りこむと相泊港の赤い灯台が見えた。 ついに知床半島を回ったのだ。
 相泊港の航路を全員でタイミングを合わせ漕ぎきり、相泊温泉の前の浜に上陸する。
 まだゴールではないが、なんだかここまで来れば一段落だ。素っ裸になって大挙して相泊温泉に入る。以前来た時よりも熱いお湯に悶絶しつつ入る。股間がしびれるほど熱いが、それが海の上を漕いできた体にはだんだんと気持ちよくなってくる。
 体が温まった所で再び出発。
 それまでの風景とは一変して護岸された海岸線を眺め、番屋のおばさん達の黄色い声援を浴びつつ?1時間ほど漕ぐとゴールの北浜が見えた。
 10時40分、北浜上陸。
 第72回目の知床EXPEDITIONは近代稀に見る晴天と好海況に恵まれ、無事終了する事ができた。みんなで荷物を浜に上げ、カヤックを持ち上げて車を引っ張ってきた新谷さんのキャリアに詰め込んで行く。
 無事終わると、ぐっさんが番屋で買ってきたビールでみんなで祝杯をあげた。
 正直、睡眠不足と二日酔いで「あ~やっと終わったか~」と思うほど、この日は漕いでいて非常につらかったが、終わるとなると安心してか、ビールもするすると飲めるのであった。
 杉さんは明日、宿にお客さんが来るというので新谷さんと共に、車の置いてある宇登呂へと向かっていった。
 残った人達で潮抜きができる物はしてしまい、PACEさんが作ったパスタで昼食をとり、新谷さんが帰ってくるのを待つ。僕は妙な疲労感に襲われてその場で寝てしまった。
 新谷さんが帰ってきて温泉に行く頃起きたのだが、寝たことでよりいっそう体がだるくなっていた。
 みんなで羅臼温泉に入りに行き、その後羅臼の道の駅でお土産を買うことに。僕はまだ買わないので、一人、道の駅の前にある海をテトラポットの上から眺めていた。
 目の前に広がるオホーツク海はそれまでの凪の海とは一転して、強い風を受けて荒れ始めていた。曇り空にウミネコが飛び舞う景色は、見事に僕のオホーツク海のイメージと被った。
 

 

 

 知床半島を漕ぎきった。
 南は西表島から沖縄本島、奄美大島、加計呂麻島、屋久島、宮崎、高知、隠岐、小豆島と旅をしてきて、ついに最終目的地である知床を漕ぎ、僕の今回の旅は一応、かたがついた形とはなった。その達成感がこのオホーツク海を見た瞬間、一気に込み上げてきた。
 肌に感じる寒さが、南から北に来た事を実感させる。
「・・・。」
 
「は・・・」
 
「ビエックショィイッ!!、ブシィッ!」
 
 感慨に浸っている場合じゃない。湯冷めだ。
 湯上りに薄着で潮風をモロに浴びたので完全に体が冷え切ってしまった。ブルブル震えながらみんなのいる場所に戻る。
 アーかっこ悪い。
 波止場でカッコなどつけてはいけない。
 

さらに知床に踏み入る・・・!

 
 番屋に戻り、部屋にこもる。
 この日の夕食は塩漬ポークを薪ストーブで焼いたものと、これまた新谷さんのツアー定番だというサンマの蒲焼丼。
 ポークが焼けた所でみんなで最後の乾杯。ビールが胃に沁みる。
 新谷さんが新婚のアラファトさん夫婦にヴァイオリンで「愛の賛歌」を弾いた。
 この夜はどうしても体調がすぐれなくて、みんなは上機嫌で飲んでいたが、僕は早々に御飯を食べ、部屋に戻り布団の中で眠ってしまった。二日酔い、寝不足、湯冷め・・・。自分の体調管理の不届きさが情けない。
 とにかくまだ僕は体を壊す訳にはいかないので、この日はおとなしく寝ることにした。 
 
   翌日、起きるとみんなコーヒーを寝ぼけ眼で飲んでいる所だった。 
「おはよう、体調はよくなったかい?」
 皆さんに気を使ってもらい、申し訳ないと同時に、とても嬉しかった。
 パッキングを済まし、新谷さんから「バトルオブアリューシャン」を購入する。ついでにサインまでしっかりもらってしまう。 
「やめてくれよ~、俺にこんな事させるなよ~」
 そう新谷さんは躊躇いつつも、しっかりサインをくれた。 
 
『漕ぎつづけるために』
 
 そう書かれた本は僕の宝物になりそうだ。
 8時過ぎに荷物を満載したハイエースはこれから根室に向かうというCさんと別れ、一路、女満別を目指した。
 途中、網走の北方民族博物館による。
 注目されがちな北方アメリカのネイティブアメリカン達だけではなく、ヨーロッパを含むユーラシア大陸の北方民族の展示品が置いてあり、非常に興味深く、資料まで購入してしまった。
 特にスカンジナビア半島のラップ人や、シベリア系イヌイットなども紹介され、カムチャッカや千島、中国北部の民族など、なかなかマイナーな部分も押さえていて興味を引いた。個人的にはもっと居たかったが、みんなの飛行機の時間もあるので新谷さんに呼び出されて車に戻る。
 1時過ぎに車は女満別空港に着いた。ここで僕以外の6人は別れることになる。ほとんどの人が共通の知り合いがいたのでシーカヤックをやっていればそのうちまた会いそうな感じで寂しくはなかったが、約一週間同じ旅をしてきただけに別れは残念だ。 
「じゃあな、あかちん。もう会うことはないと思うけどな」 
「いーや、PACEさんとは絶対会うと思います(笑)!」
 みんなと別れ、新谷さんと2人、女満別駅に向かう。

 このツアーが始まる前、僕は新谷さんに「もし時間があるのならば、次のツアーも来てくれないか」と誘われていた。次のツアーは人数も多く、カヤック初心者も多いので、僕がいると助かるというのだ。まぁ取り合えずそれは僕が使えるかどうか見てからまた言って下さい…と、この時ははぐらかせてしまっていた。
 ツアーが終わり、番屋を出る時、いよいよ僕は新谷さんに次のツアーはどうするのかと聞くと、「やっぱりいいや、人も多いし」という返事を得た。
 本来の予定ではこのツアーが終わったら僕は積丹にでもいってちょっと漕ぎ、青春18切符が使える910日までに列車で東京まで帰ろうと考えていた。だから別に来なくてもいいのなら、それでもいいと思っていたのだが、「あー俺は使えない人間だと思われたのか・・・」と思い、勝手に意気消沈してしまった。 
 
「おい、やっぱ行きたいのなら行こう。行こうぜ」
 少し間を置いたのち、振り向きざまに新谷さんはそう言ってくれて、僕は次のツアーも参加することになった。
 結局の所、やはり行きたかったのだろう。正直この一言は嬉しかった。
 そういう訳で、また94日に知床斜里にくる約束をし、女満別の駅で僕は新谷さんといったん別れた。
 札幌の友人の家に置き忘れたかもしれないコンタクトレンズを取りに行くのが目的だが、あまり意味のない電車旅行になるとはこの時は思いもしない。
 
 とにもかくにも僕の一回目の知床EXPEDITIONは終わった。だがこの時まだ僕は次の知床EXPEDITIONが新谷さん自身も驚くほどの歴史的なEXPEDITIONになるとはこれまた思いもしないのだった。

 
 あまりにも平和的だった第72回目の知床。これを『陽』だとすると、この次の73回目は明らかに『陰』の知床である。

 
 いきなり1時間半も駅で待ち、僕は札幌に向かった。