第十一章
TAEM RETARAWATARA
~まさにEXPEDITIONな日々~
北海道 知床半島その二
2005年9月4日~12日
『知床EXPEDITIONは始まればいかなる条件でも中止する訳には行かない』
9月4日。僕は再び知床斜里の駅に降りた。
9月1日に女満別駅で新谷さんと別れた僕は1時間半後にやっと来た電車に乗り、ひたすら西に向かった。しかし昼過ぎに乗った電車ではとても1日で札幌まで行ける訳はなく、行けるところまで行ってみると、そこは白滝という駅だった。
無人のホームから降りると辺りは闇に包まれ人影がない。商店すらすでに閉まっている。
自動販売機で発砲酒を買い、それを駅の待合室で飲みながら朝を待った。
次の日、札幌方面に行く電車が来たのはなんと11時。 旭川で寄り道して旭川ラーメンをすすり、札幌に着いたのは夕方6時過ぎだった。
北海道での僕の世話役になってくれたKさんは、あいにく翌日から出張で東京に行くというのでこの日は軽く2人で飲んで、翌日、東京に持っていく北海道土産を買うのを付き合い、千歳空港に向かうKさんと同時に僕も斜里に向かった。
今度は富良野経由で帯広、釧路と南から攻める事にした。ここでも東に行けるところまで行くと帯広の隣、十勝川のある池田に着いた。当初は帯広に泊ろうと思っていたのだが、あまりの大都会ぶりにビビってしまい、やや落ち着いた池田に落ち着いたのだ。
飯は駅を降りる度にコンビニかスーパーを探す。コンビニは便利だが、貧乏旅行者にはスーパーの方が飲み物が安かったり、半額になっていたりして便利だ。
翌日、朝一の電車に乗り釧路まで行き、そこの市場をちょっと見てから北上、釧路湿原を縦断し、知床斜里に着いたのは12時30分頃だった。
1時頃、新谷さんが迎えにきてくれた。挨拶もそこそこに、斜里の町で備品や酔い止め薬などを購入しておく。
「今回は台風が来ているから、相当ゆれると思うんだ。これがないと困るからな」
酔い止め薬と一緒に新谷さんは「求心」も買う。この薬は心拍数を整え呼吸を安定させるので、高山病の予防になる。その為、新谷さんはヒマラヤ時代から愛用しているのだそうだ。
「俺の唯一の贅沢品だよ」
新谷さんはそう笑って2粒ほど口に放り込んだ。あとで値段を見てビックリしてしまった。
斜里から宇登呂経由で知床峠を越へ、羅臼に向かう。そこからさらに北浜まで。何回も行き来をしている物の、普通に考えればかなりの距離だ。そのため今年のツアーだけでもすでに新谷さんのハイエースは限界ギリギリに疲れていた。
「知床EXPEDITIONの仕事はまず、車の運転だよ。カヤック漕いでいるより、車を運転している時間の方が長いんじゃないか??俺、もう厭だよ、運転!(笑)」
そんな冗談もあながち笑えないほど、実際車の走行距離はひどい物だった。女満別までの送迎で往復200㎞以上は走らないといけないのだから。
番屋北浜に着くと、管理人の石田さんは留守なようだった。新谷さんと明日からのツアーの準備をする。
夕方、明日からのツアーに参加するライダーのナオさんとH山さんが番屋にやって来た。今日はここに泊るというのだ。前日からの参加とはなかなか気合いが入っている。とはいっても、前回の僕も前日参加だったけど・・・。
この夜は新谷さんの羅臼の友人などが番屋にやってきて、飲んでいった。色々肴を持ってきてくれたので、それをもらっていたら結構おなか一杯になってしまった。羅臼町の色々な話を聞いているうちに夜は更けていった。
さて、翌日から第73回目の知床EXPEDITIONが始まるわけだが、さきほども少し触れた通り、今回も不吉なことに日本の南の海上には大型の台風が発生していた。
前回の72回でも台風が発生しており、関東からの参加者が飛行機に乗って来られるかどうかが微妙だったのだが、これはまったく別の方向に流れてくれたので予想に反してベタベタの海を漕いで行くことができた。
ところが、今回はどの予報を見てもバッチシ日本縦断コース、あわよくば北海道直撃という予測コースなのである…! 当初、羅臼から出発する予定だったが急遽、通常通り宇登呂からの出発とし、ダマシダマシ、停滞覚悟で行こうということになった。
海はまだ静かだ。だがその静けさはまさに「嵐の前の静けさ」だった・・・。
1日目
宇登呂海浜キャンプ場
個人備品と団体装備をまとめて車に詰め込み、ナオサンたちもバイクを番屋に置いて新谷さんの車に乗り込んで一緒に宇登呂に向かう。
知床峠からははっきりと羅臼岳が拝め、はるか海上にはクッキリと国後を見ることができる。
「チャチャヌプリ(爺爺岳:国後最高峰)まで見える・・・。こんなに国後がはっきり見えるのは俺もはじめてだ・・・」
羅臼から国後がはっきり見える時は天気が荒れる・・・。これは羅臼では普通に信じられている言い伝えだ。青い空にクッキリと浮かぶ国後はそれだけで十分不気味だった。
宇登呂で荷物、カヤック、僕らを下ろし、カヤックを並べた所で新谷さんは女満別空港にお客さんを迎えに行った。僕とナオさん達でその間に全員分のテントを張り、ある程度、荷物をカヤックに分散しておく。
今回のツアー参加者はガイドが僕を含め 3 名、お客さんが 15 名の計 18 名という大所帯だ。そのため使用するカヤックはタンデム 7 艇、シングル 4 艇というタンデムを中心の編制で、シングルは全てポリ艇のパフィン。この 11 艇のカヤックを並べるのも骨が折れたが、さらに人数分のテント 9 張もなかなかたてるのが大変だった。
何とか仕事も終わり、ナオさん達と宇登呂市街に昼飯とツアー中の嗜好品を買いに行く。
半ダースの発泡酒とフォアローゼスを買って出発地に戻ると、正面の景色を見て僕は一瞬凍りついてしまった。そして次の瞬間、たまらずダッシュ! テントが風で転がっているのだ!! 息を切らしながらテントサイトに戻ると、急いでテントを回収し、もとあった場所にしっかりペグ打ちしておく。急に風が出てきたとは思ったが、こんな事になってしまうとは・・・。いかなる時もしっかりテントは固定しないとダメですな。
ここはもう知床なのだ。気持ちを切り替える。
結構な重労働になってしまったテント回収作業と設営に疲れて昼寝をしているとナオさんたちも戻ってきて、自分でここまで来るお客さん達もやって来はじめた。
14 時過ぎ頃、女満別から新谷さんが戻ってきて、お客さんたちと話していると、杉さんもお客さんを連れてやってきた。今回は僕も杉さんと同じガイドとして知床に向かう。杉さんは笑顔で僕の同伴を歓迎してくれた。
杉さんはハンターだ。猟期には山に入りエゾジカやヒグマを追う。釣りもするので、僕が狩猟の話を振ると杉さんは喜んで色々教えてくれた。
薪を集めて焚き火を起こし、夕食の準備。この日の夕飯はジンギスカン。
台風が来ているとはいえ、この日の夜はまだまだ普通の夜だった。風がやや強いものの、みんなで自己紹介をして恒例のワインバーのワインを飲む。
お客さん 15 名は様々な顔ぶれだ。ほとんどは関東からのお客さんだったが、地元の北海道の人もいれば秋田、大阪、愛知から来る人もいた。 明日からの EXPEDITON に備え、ガイド 2 人は早めに寝たが、僕は焚き火番で 11 時頃までお客さんと話をし、テントに潜りこんだ。
2日目
海浜キャンプ場(宇登呂)→蛸岩
早朝、熱いコーヒーを煎れて焚き火の熾きでトーストを焼く。
各自テントを撤収してもらい、荷物をカヤックに振り分け、パッキングする。
出発はやや遅れ、 10 時頃となった。西風が吹き、漕ぐ分には問題のない風だ。ただ、沖からのうねりが入り、海上に浮かんでいるとたいした事のないように見えても、海岸を見ると白煙を上げて波がぶち当たっている。海面にはところどころ潮の華が浮かんでいた。
出発地から 10 ㎞、カムイワッカの滝までは断崖絶壁が続くのは前章で書いた。この絶壁に波がぶち当たり、返し波となって沿岸域は複雑な波を作る。三角波とも違う不安定な波で、知床 EXPEDITON ではこの波によってよく船酔いをしてしまう人が多いようだ。この日も出発早々に札幌のHさん夫婦の奥さんが、船酔いの症状が出てきた。
同時にラダーの調子が悪いということでナオさん達の船も横につけ、ラダーを直していると停まってしまったからか、波のゆれをもろに感じてしまいナオさんも船酔いになってしまった。のちに 2 人は『ゲロリーズ』という汚名を着せられてしまった・・・!
新谷さんを先頭に船団は前進するが、度々Hさんやナオさんの船はパドロングを休め、嘔吐を繰り返した。その度に僕は大声で新谷さんや杉さんに合図を送りみんなをとめる。カヤックでは酔ったことはないが、漁船や調査船に乗ってさんざん船酔いに苦しめられた経験を僕も持っているので、 2 人の苦しみはよくわかった。
それでも H さんは笑顔で少し休むと弱音も言わずにパドリングを続け、みんなに追いつこうとする。たいした根性だ。この人なら大丈夫だと思った。
船団はマムシ浜沖にまで着く。新谷さんが一艇だけで浜に向かっていき、上陸のタイミングを見計らうが、しばらくセットを見た後、戻ってきた。
「ダメだ。何艇かは上陸できても何艇かは舟を壊す」
高いうねりによって海岸には高エネルギーの塊がぶつかっている。通常の砂浜なら、波の起きる手前でカヤックから飛び降り、そのまま泳いで上陸するという荒業もできなくはない。ところが知床はほとんどがゴロタ浜だ。波で沈するという事は舟、身体ともに石に叩きつけることになる。
上陸地が限りなく少なく、狭いということも知床一周の困難性を高めている要素の一つのようだ。
新谷さんはマムシ浜を諦め、そのまま前進。カムイワッカの滝、ルシャを越えて蛸岩まで行くと告げた。
この時点で多くの参加者がかなり疲れてきていたはずだ。だが新谷さんについて行き、漕ぐしかない。
これはまさに新谷暁生隊長率いる、知床 EXPEDITION なのである。
行動食がふるまわれ、しばらく海上で休憩。明るい笑顔が飛び交う。まだまだ大丈夫だ。
漕いでいる分には海はさほど苦労はないのだが、さすがに約 7 時間、 25 ㎞の道のりは初心者にはかなりのインパクトだったろう、問題のルシャは西風だった為になんなく通過し、蛸の形をした岩によって湾内が比較的静かな蛸岩にたどり着いた。
新谷さんがまず上陸し、続いて一人づつ、波のタイミングを見ながら隊長の指示のもと上陸して行く。 ここでは一人の沈者もでることなく、無事全員上陸した。
カヤックをみんなで引きずり、潮上線より上に持っていく。
前回のツアーの時、僕はカヤックを持ち上げて運んで新谷さんに怒られた。 通常、カヤックは岩やコンクリート、砂の上でも引きずると表面のゲルコートが削り取られ、船体も傷むので引きずるのはご法度なのだ。だが新谷さんは「不安定なゴロタ浜ではカヤックを持って運んでバランスを崩して怪我をしたり、放した荷物満載の舟が岩に叩きつけられて破損したりするからやめてくれ。船を引きずれば表面が傷つくだけですむ」と言うのだ。新谷さんがポリ艇のパフィンを愛用するのも頷けた。ポリなら多少ぶつけても割れないし、ゴロタの上ではよくすべる。
「どうだ?」
新谷さんは僕の顔を見るなりそう訊ねた。この荒れた知床をどう思う?…と、いった感じだ。それは「この厳しい知床が本当の、知床だ!」と言いたげで、不謹慎かもしれないが、その時の顔は前回、凪ぎの知床を漕いでいた新谷さんに比べると、とてもイキイキした顔に僕には思えた。
やはりこの人は、そこら辺にいるカヤッカーとは一線を画す。違った意味でのカヤッカーだと思う。ファッションではない道具の使い方をし、レジャーとしてではなく、スポーツとしてシーカヤックを行っている。
すぐにタープを張り、荷物を一箇所にまとめる。薪を集めて焚き火を起こし、各自テントを張る。
蛸岩には日が沈んだあと、異常じみた青と赤の世界が見られた。きれいではあるのだが、どこか恐ろしい。明らかに気象学的におかしなことが起こりそうな雰囲気がしてくるのだ。
キャベツスープと炊き込みご飯の夕食をみんなでとり、今日の疲れを癒す。みんなで自分の船酔い失敗談をし、ゲロリーズ2人を励ましていた。
風も出てきて、この日は新谷さんの指示で皆テントに早く戻っていった。新谷さんに明日の予定を確認し、僕もテントに戻る。うまくいけばもう少し前進、悪くなればこのままこの場所で停滞ということだ。9時の NHK 第二放送の気象情報で新谷さんは天気図を書いてから寝るといった。明日からの予定はその結果しだいとなる・・・。
3日目
蛸岩→レタラワタラ
早朝、隊長は前進する決断を下した。
昨夜の天気図を見る限り、この場所にいては危険だとの判断だった。
「あれを見ろ」
新谷さんの指差した方角を見ると辻風が起こり、竜巻になっていた。俗に言う、「ルシャだし」が吹いているのだ。もし昨日ルシャを越えなかったら、僕らはあの風につかまって前進できなかっただろう。灰褐色の空に不気味は音を立てて吹く風を、肌ではなく目で感じるのは初めてだ。背中のあたりに悪寒が走った・・・。
新谷さんは極度に緊張し、神経が機敏になっている。僕は不用意に軽率な事を言ってしまい、怒鳴られた。ものすごい重圧と責任がかかっている人を前にして僕は阿呆だ。リーダーだって怖いことくらいわからない自分が恥かしい。
7時、一艇ずつ舟を出し、岸際ギリギリを一列になって漕いでいく。波は昨日のようなうねりはないが、風が恐ろしく強い。ルシャからの追い風は、明らかに 12 m以上はあっただろう。
カシュニの滝はあまりの強風にあおられて海面に水がたどり着いていない。その飛沫が通過時に降りかかる。
追い風なので前進することに関しては苦労ないのだが、逆に行きたくもないのに前進してしまい、岩に叩きつけられないようにうまくスターンラダーでいなしていく。うまくコース取りしていかないと、とり残される事となる。僕はシンガリにつき、メンバーの舟に異常がないかを確認しながら進んで行った。
ところが途中で風が向かい風に変わる。最初はルシャからの風で追い風だったのだが、ルシャの範囲外に出ると岬を回った風が吹いてきたので向かい風になったのだろう。
なんとか向かい風の中、根性で漕いでいると新谷さんは予定の落合湾ではなく、その手前にある廃屋になった番屋がある、とある浜に上陸した。うまい具合に風裏になっていて、サーフもなく上陸するととても静かだった。
状況からしてここで停滞するのは確実だった。浜には多数のカラフトマスが打ちあがっており、中には明らかにクマが食べたと思われるものもある。ここはクマの通り道だ。
焚き火をおこしてまずは腹ごしらえと、うどんを食べる。口臭のこと等おかまいなしにニンニクをガンガン入れる。
昔の番屋があったコンクリートの基礎の上に僕らはテントを立て、その脇にカヤックを運び、ロープでがんじがらめに固定した。知床では台風でなくとも風が吹くとカヤックをも吹っ飛ばすというから洒落にならん。
残っている 2 練のうち、まともな一つを掃除してボコボコの壁の隙間を落ちている釘と板で埋めて中にタープを張る。これでとりあえず荷物置場と、いざというときの避難場所が確保された。
焚き火にあたりながら皆と談笑していると、杉さんが「マスがいる」と言って釣りを始めた。僕も竿をつなげ、ルアーを投げた。
波打ち際で座り、波が巻く瞬間を観察していると、時々サーフの中にマスのシルエットが見えるのだ。隣にある磯に行き、足元を見ると時々マスが回遊するのを見えた。台風で漁師が定置網の仕切り網を外しているのでマスは一箇所にかたまらず、海岸線を回遊していると杉さんは言う。魚が一ヶ所にいる事はないが、チャンスは多い。ひたすらルアーをキャストした。
しかし次第に風は強くなり、波が出てきて雨まで降りだしてきた。雨具を着てやるが、なかなか釣れない。焚き火に当たり、定期的に温まりながらやるが、いっこうに釣れない。杉さんにもまったく当たりがなく、やめてしまった。
僕ももうやめようかなーと思っていると、いきなりヒット!ものすごい抵抗をみせ、ドラグからは糸がバンバン出る。しかもここぞとばかりにエラあらいにジャンプ!思わず「ウッヒョーッ!!」と、叫んでしまった。俺は釣りキチ三平か!?
縦横無尽に走るマスに対し、こちらも海岸を走り回る。魚が弱る気配はないのでだいぶ寄せた所で後に後退し、波に乗せて一気にランディング。カラフトマスにしてはかなり大型のオスだった。引きが強いのでスレかと思ったがしっかり口にフックアップしており、ちょっとこいつは嬉しかった♪
その後僕にはまったく釣れなかったが、杉さんのタックルを借りていたお客さんの「大ちゃん」こと、K地さんが 2 本釣り、人数的にもう一本欲しかったがこの 3 本のみとなった。
小雨が降る中、焚き火の火は消えることなく炊事の仕事をまっとうしてくれた。明るいうちから米が炊かれ、この日はイクラが入った三色丼。タープは小屋の中に使われているので皆さん雨合羽を着て、したたる雨の中で飯を食い、酒を飲んだ。
新谷さんはしきりに小屋の中で天気図をひいた。予想では今夜から明日にかけて、台風は北海道を通過するようだ。つまり、明日は停滞が確実というわけである。飛ばされてはいけないものを小屋の中に入れ、各自テントの中に早めに入って行った。
僕のテントには同じくタンデムで一緒に乗っているK村さんがいる。2人で今夜の暴風雨に備えて荷物をテントの中にまとめ、テント周りを整備、補強した。
電気を消してテントの中で横になっていると、次第に風がべらぼうに強くなってくるのがわかる。雨足もどんどん強くなり、テントに叩きつける雨の音も激しくなってきた。
夜中の11時頃、あまりの強風で、テントがバタバタとゆれる音で目が覚める。風が叩きつけてテントは激しくひしゃげているが、まだまだ大丈夫だ。ただ、とりあえずスゲーことになってきたな…と思いながら横になっていると、12時頃、パトロールしていた新谷さんがやってきてポールを抜くぞと言ってポールを抜いて行ってくれた。もちろんテントはしぼんで快適な空間はなくなるがバタバタといった騒音はなくなる。頬にテントを貼り付け、雨があたるのを感じながら眠る。
ところが今度はK村さんがごそごそと何かやっている。どうしたのかと思えば、浸水してそれを拭いて絞っているのだ。僕も起きてライトで照らしてみると、あまり気にならなかったが、すでにテントの中には大量の水が入っており、ポチャポチャと嫌な音をたてていた。わかってしまうとあまりにも不快なので最初のうちはふき取っていたが、次第に面倒臭くなり、濡れたシュラフに包まってそのまま寝ることにした。
3時半頃、隣に張ってあるテントの住民の声で再び目が覚める。新谷さんも再びやってきて、どうやらテントの場所を変えるようだった。僕もたまらずテントから這い出し、それに便乗する事にした。
テントから這い出ると、背後のイタドリの林が、闇夜の中で妖怪のように踊りくねってざわめき、不気味な風の轟音が響き渡っていた。
暗くて見えないが、海からもすさまじい波の音が響いてくる。時々体に爆風がぶつかる。
テントの下は水溜りになっていた。俺らのテントもひどい場所に建てたと思ったが、隣のテントはまさに川のようになっていて、よくもまぁ今までここの上にテントを張っていたものだと思うくらいだ。
普通に考えれば水捌けの悪いコンクリートのうえにテントを張るのはご法度なのだが、ひどいゴロタ浜にばかりテントを張っていたので、平らで斜めでもないこの場所に目がくらんでしまったようだ。風をよける為にイタドリの林の中にスペースを作り、その中にテントを張る。普通に考えればひどいサイトだったが、その時は非常に安心できる空間だった。
束の間の睡眠のあと、あたりが明るくなってきた。明るいというだけで、ものすごく気分は楽になる。天気が回復する事とは関係なく、人は日が明けることに何か期待を抱く。
ちらほらと皆、潰されたテントから這い出てきた。
時を同じくして空には青空が見えてきて、雨はあがった。風は依然として強かったが、夜半ほどの強さはない。
ただ、目の前の海はどうしようもないくらい荒れていた。
だれがなんと言おうと、この日は停滞と、誰しもが悟る。
『風は川ではない』
4日・5日目
レタラワタラ停滞
台風の通過で気温は不思議に生温い。それが濡れ鼠の僕らにはありがたかった。
皆からの話を聞いていると、どうやらテントが2張り、台風によって大破したらしい。あとで大破したテントを見せてもらったが、ポールのエッジを境にキャンパスが見事に裂けている。寝ていた杉さんは、突風が吹いたと思ったら突然星空が見えたと笑った。僕らのテントももう少しポールを外すのが遅かったらと思うとゾッとする。
9時に再び新谷さんが天気図をひいた。それを見ると2時間前の天気図がわかるのだが、なんと台風 14 号がちょうど自分たちの目の前、宗谷岬と知床半島の間付近にあったことがわかった。ふと目の前の海を眺めると偶然かどうか、青い空が見える一画がある。
「あれが台風の目じゃねぇか??」
みんなで笑いはしている物の、ずいぶんと物騒な物を目のあたりにしていると僕は思った。
雨も風もやんで、安心しきっていたが、まだ台風の防風圏内であることには変わりない。次第に前方から雲の塊が前線状になってこちらに向かってきた。ブァアーッとじわりじわりと風が吹いてきたと思ったら、再び強い風が吹き荒れ、雨が降ってきた。急いで乾かしていた濡れ物をしまい、テントに戻る。テントが破壊された人たちは番屋の倉庫の中に逃げ隠れた。
この前線の通過で気温が再び知床の気温に戻った。肌寒い。
正午くらいに風はともかく、雨はあがってくれてテントから濡れ物を放り出した。
食料をなるべく浮かせるために河口にマスを拾いに行く。この台風で河口に集まったたくさんのマスが波浪で打ちあがっているのだ。ヒグマが餌をあさりにくる事も考え、ベアースプレー持参で大勢して行く。果たしてこの風でスプレーが効果あるかは疑問だったが・・・。
川は水量が増し、激ニゴリだったが、その中を大量のマスが遡上して行くのが確認できた。背中のせっぱったカラフトマスの雄が、体の末端をボロボロにしながら川を昇っていくのは圧巻だ。この台風でできたと思われる小さな沢にまでマスが這い登り、産卵礁を作るために周りのマスを排除していた。
干上がってしまうかもしれない沢で、自分の一生をかけた大仕事をやろうとしているマスに憐憫さを感じるとともに、生きる事への執念を感じる。こんな事、 NHK のドキュメンタリーや小学校の教科書で何度も知っているし、あまりにもベタベタな表現なのだが、生で見るマスの溯上は予想以上に迫力があった。そして、日本国内でもこのような自然界の営みが行われている事に今更ながら驚いた。
日本の自然はすごい。
仕事はアッサリ終わった。波打ち際に大量に集まっている海鳥を追い払うとたくさんの打ち上がったマスがいる。そこから必要な分だけを回収し、キャンプサイトに戻った。釣りをして、必死に数を集めていたのがアホらしくなるほど、鱒は大漁だった。しかもかってに打ちあがってくれるのである。
午後になり、海岸に打ち寄せる波の勢いが増してきた。次第に一回の波が打ちあがってくる面積が増してきて、僕らが焚き火をやっている場所も危うくなってきた。満ち潮になっている事も手伝っているが、波打ち際で採ったマスをさばいていると何度も波にさらわれそうになる。新谷さんも杉さんも、そして僕も再びずぶ濡れになった。
ちょっと早いが夕飯となる。夕飯は朝から作っているカレー。丸一日、とにかくひたすら煮込まれたカレーは絶品だった!ワインバーも開店と同時に今日の分はなくなってしまう。
知床半島宇登呂側は西を向いているので、どこもがサンセットビーチだ。この日の夕日は台風が色んな物を持っていってしまったからか、すばらしい物だった。真紅の空に落ちる夕日はお世辞抜きに今まで見てきた夕日の中でも一二を争う赤さで、皆が恍惚の表情で眺め、カメラのシャッターを押していた。
昨日の散々な体験があったためか、この日はみんな饒舌で焚き火の周りで飲み、よく話した。僕のフォアローゼスはあっという間になくなっていた。
翌日、天気はこれまでにない晴天で、青空が広がっていた。風も弱くてかなりいい感じだったが、海がどうしようもないほどの荒れ具合で、見事にゴロタ浜のカタチはえぐられて変わっていた。午後には出られるかもしれないという希望を持ってすごす事に。
朝食は昨日採ってぶつ切りにし塩漬けにしておいたホッチャレスープロシア風。産卵を控えたマスはニジマスの様な肉質になり、薄味のボルシチ風スープは体に優しい味がした。
用をたしにいっていた杉さんが再び銀毛しているマスのオスを拾ってきた。波が激しいので河口でなくてもマスは打ちあがっているようだ。開いて肉は燻製にし、頭と白子を焼いて喰ってしまう。マスや鮭は骨が柔らかく、軟骨も多いので、うまく焼けば頭はそのままバリバリ食べられる。白子もむっちりした味でうまい。
マスを食って飢えをしのぎ、気分はクマになった感じだ。
朝から、飯を作り、食べる事しかやる事がない。暇なのでお客さんも色々とおもしろい事をやりだした。
S田さんは早朝から廃材の中から引っ張り出してきた水槽をゴシゴシと沢の水で洗っていた。何をするのかと聞くと、焼け石を入れて温泉を作るというのだ。
炊事に使っている焚き火とは別に焚き火を作り、そこで大量の石を焼き始めた。 1 ~ 2 時間ほど焼き、これまた拾ってきたポリタンクでまだ濁っている沢の水を汲んで水槽を満たし、焼き石を投入する。「ジュォッ!!」という音とともにブクブクと泡が出る。この石を 5 個ほど入れると 40 ℃近いお湯が沸いたのだった。秋田のワッパ汁の原理だ。
10 時頃完成し、『知床温泉』が開店。
「ウォオーッ!!気持ちいいーッ!!」
変わりがわりにこれまた拾ったひしゃくや洗面器でお湯をかぶり、頭や顔を洗う。新谷さんもお呼ばれされ、顔を洗ったりしている。ここぞとばかりに女の人達もシャンプーを出して 4 日ぶりの洗髪を楽しんでいた。
番屋にある旗をあげるための柱や番屋の柱にはザイルが結び付けられ、そこには大量の洗濯物が干される。ずぶ濡れになったシュラフもここぞとばかりに干され、穴の開いたテントを補修する人もいる。
風もなく、陽射しが強いので濡れ物はすぐ乾くだろう。男の人達はみんな上半身裸になって過ごしていた。知床とはいえ、やはり夏はまだ暑い。温泉が終わったあとは沢の水をためて、行水をして楽しんだ。
各自思い思いに空いた時間を潰し、創意工夫して有益にすごしているのがおもしろい。
僕はと言うと荒れた海を見ながら前回のツアーでPACEさんに教えてもらった「石立て」をひたすらやって遊び、気付いた頃にはストーンヘッジがいたるところに出来上がっていた。
釣りは絶望的に釣れない。海中は完璧にかく乱され、釣れるのはコンブコンブ、とにかくコンブばかりで話しにならない。
お茶を沸かし、飲み、なくなったらまた沸かす。その繰り返しだ。
上空に猛禽が現れた。オジロか大鷲かはわからないが、地上の一画に閉じ込められた哀れな人間の目にはとてもかっこよく見えた。しばらく我々の上空を旋回したのち、山の方に消えてしまった。
のんびりしているが暇ではない。知床の停滞は何かとイベントが多かった。
出発予定の 3 時になっても依然として海の様子は変わりそうもない。この日も停滞することになり、明日の早朝、一気に相泊まで行くという計画を新谷隊長は打ち立てた。残り約 30 ㎞。初日に 25 ㎞を漕ぎ、新谷さんを信頼してやってきた参加者にその計画に文句を言う者はいなかった。
この夜は明日のアタックに備えて精力をつけようと塩漬ポークが焼かれ、ニンニクたっぷりのペペロンチーネ、ベーコンキャベツスープが作られた。しまっていたカヤックを表に出した時に、ハッチ内にしまっていたビールも出てきて、それも開けてしまい僅かに残っていたフォアローゼスにもトドメをさした。
闇夜の中、焚き火の炎だけを頼りにみなと話をする。明日は明け方とともに出艇なので、それでも皆 10 時前にはテントに戻っていった。
明日、僕らは岬を越える。それが今回の EXPEDITION で、最も困難な過程である事も知らずに・・・。
6日目
レタラワタラ→知床岬→念仏岩→滝ノ下
早朝、 3 時起床。
軽い行動食を食べただけで明け方 4 時過ぎに出発した。
心配したサーフゾーンも無事にクリアーし、うねりはやはり残る物の、カヤックを漕ぐ事にさほど苦労はない。
しかし、あまりのうねりの大きさに沿岸域はブーマーとサラシで真っ白である。岸際ギリギリを漕いで行く新谷さんには珍しく、沖合いを僕らは一列になって漕いでいった。
海賊湾、落合湾、ポロモイ沖を漕ぎ、文吉湾も堤防の外側を大きく回りこむように進んで行く。前回来た時とはかなり大きく異なるコース取りだ。
アブラコ湾でいったん湾内に入り、大勢を整えてから知床岬を回りにかかる。
岬の先端には船外機の漁船がいた。こんな荒れた海でも漁をしているのだなと感心していたら、あとで新谷さんが「ウニの密漁船だ」と教えてくれた。だが、密漁船だろうがなんだろうが、船員はこの先の海況を伝え、僕らを見送ってくれた。
岬から突き出た浅瀬を巻くためにいったん沖合いに出る。そして先ほどから見え始めた国後の島影が正面に見えた時、僕らは知床岬を越えた事を、体感的に理解した。
風が変わったからだ。
羅臼側に出れば風は収まるという話だったのだが、むしろ風は羅臼側に出た途端、猛烈にカヤックを襲いだした。
(話と違う…!)
猛烈な左前方からの風に、それまで何とか漕げていた人達もあまりの抵抗にジリジリと後退していくのが見て取れた。明らかに腕の力に頼っている人にはその場で腰を使った漕ぎ方にするように指導する。疲れてきた人たちにはゲキを飛ばした。
岬を回り、赤岩まではそれでもみんなかたまって付いて来ていた。だが、上陸するべき場所はほとんどサーフが巻き、とても上陸できるような状況ではない。そうこうしているうちに隊はだんだん新谷さんのいる隊と後方に置いていかれる隊に分かれ始めていた。
赤岩湾沖を漕ぎ、そのままカブト岩の沖も漕ぎぬけ、カブト岩と念仏岩の間にある湾に漁船が係留してあったのでその中に逃げるように入り込む。だが風はちっとも収まらない。
ここで後方の隊がくるのを待つが、もたもたしているとこっちもどんどん流されてサーフに呑まれてしまう。新谷さんは大声で叫び、隊は再び沖を目指して漕ぎ出した。
念仏岩の沖合いを漕いでいる時、ついに事故が起きた。
シングル艇の C さんが突然起きたブーマーに呑みこまれてしまったのだ!
急いで新谷さんがレスキューに回り、再乗艇を手伝う。
この時点で隊全体の統制が取れなくなってしまったのかもしれない。僕が C さんの舟につけてビルジーポンプで排水していると、今度はF寺さんとS田さんのタンデムがサーフゾーンに近づくのが見えた。
「バァークッ!!」
懸命に叫ぶが時すでに遅し、タンデム艇は波にもまれ、真っ白なさらしに舟が呑まれてしまった…!浮かび上がったカヤックに、 2 人の姿はない。
新谷さんが 2 人の巻かれた場所に急行すると、 2 人を確認したらしく陸に上がれと指示を出していた。
「ツイテコイッ!!」
その指示に従い、残ったカヤックは新谷さんの後についていく。だが、隊はかなり広がってしまっていてかなり後方にもカヤックが浮いていた。新谷さんは後方の様子を見るために戻り、僕に陸に上がるように指示をした。
周りにはHさん夫婦のタンデムにFさん夫婦、杉さん、 H 田君のタンデムにナオさん達のタンデム、K地さんのシングルが見えた。杉さんと彼らを引きつれ上陸地を探す。
すでに念仏岩は越え、滝ノ下は見えた。念仏岩で沈した彼らのことも考え、このあたりに上陸するのが無難だとは思ったが、前回僕らがキャンプした滝ノ下は波が直接ゴロタ浜にぶつかり、とてもじゃないが無事に上陸できるとは思えない。一箇所だけ、沖縄のリーフのように沖合いに浅場があり、そこで波が砕けて浜にはそれほど大きな波がぶつかっていない場所を見つけた。いい具合に基質もゴロタでなく砂利だ!
「僕が上陸したら、合図の後、同じ場所に上陸してください!!」
そう指示を出すと僕は波のセット数を数え、最も弱い時を見計らってカヤックを進めた。
僕のカヤックに乗っているK村さんはかなり年配の人だ。沈するわけには行かない。カヤックガイドとしては状況判断の材料も経験もあまりにも足りない僕だが、沖縄のサーフで鍛えられたエキジットの技術には自信があった。
僕の仕事は不沈艦になる事。
後から来る波をうまくいなし、最終的に波には乗ってしまったが、無事に上陸できた。カヤックをK村さんと一緒に持ち上げ、次々に来るカヤックのエキジットをサポートする。
杉さんとFさん夫婦は筏を組み、双胴船の状態でエキジット、H田さんとナオさん、K地さんの船は波打ち際で沈してしまったものの、無傷で上陸できた。
安心していると、左の浜にシングルのCさんとKさんがズブ濡れになって上がっていた。沖で沈してしまい、泳いできたがKさんの舟が漂流しているという。沖を探すとサーフでもんどりうっているカヤックを発見。泳いで回収しに行き、みんなのいる場所までカヤックを引っ張っていった。隔壁の中にまで水が入っているパフィンはえらく重かった・・・。
F寺さんたちが漂着している場所に行くと、最後方にいた人達もそこに自力で上陸しており、テントを出して休んでいた。F寺さんは体のあちこちを打ったらしく、そこが痛々しいが、骨には異常なさそうだ。かるいショック症状にあったが、とりあえず全員の生存が確認できて安心。新谷さんも上陸し、とりあえず無事をみんなで喜んだ。
予定では今日中に相泊、もしくはペキンノ鼻は越えたいところだった様だが、とりあえず今の上陸で痛めた舟を修理、補強したりしなければならない。焚き火を起こし、うどんを食べ、とりあえず3時に再出発する事とし、しばらくの間休息する事となった。
念仏岩に漂着したF寺さん達のタンデム艇は損傷が激しい。他にもラダーがはずれかけた物や、ラダー自体が壊れている物もある。ラダーを直し、 FRP 樹脂とファイバーで艇を補強する。
予定通り、 15 時過ぎに僕らは再びカヤックに乗り沖に向かって漕ぎ出した。
だが、最後の杉さんの舟がなかなかエントリーしない。 20 分くらいしてやっと杉さんと H 田君の舟は新谷さんとともにやってきたが、新谷さんは今日の出発を見送った。
「風が強くなった。これではペキンノ鼻は越えられない。誰か殺してしまう」
日程的にこの日には番屋北浜に戻っていないと、明日の朝の飛行機で帰る人もいた。新谷さんはその人や他のお客さんに謝りながら自分の失敗を詫びたが、誰も新谷さんに責任を押し付ける人はいない。むしろ全員無事に帰れる事を選び、このような貴重な体験をできることを喜んでいたように思う。
再び元の浜に上陸したのだが、むしろこの時の上陸の方が厄介だった。
みんな先ほどの上陸より慣れてしまったのか、先頭の合図とは関係なく、勝手に上陸を試みてしまった。僕の舟はナオさん達の舟に突撃されそうになり、何とか腕で押して直撃は避けたが、カヤックの横に衝撃が走った。波に乗ったカヤックはそれだけで凶器だ。
何とか沈はせずに僕らもナオさん達も上陸できたが、Fさん夫婦、杉さんたちは波打ち際で沈、泳いで何とか上陸。杉さんはこの時メガネを無くしてしまった。シングル艇の人達は何とか上陸できたが、Hさん達の舟が沈し、舟と奥さんが沖に向かって流れ出した! カヤックに急いで新谷さんが乗り込み皆でカヤックを押しだす。ところがUターンして救助に向かう際、波に乗ってしまった新谷さんはカヤックごとHさんの真上から突っ込んでしまい、危うく二次災害に会う所だった。無事に新谷さんもHさんも海岸にたどり着いたが、ちょっと危ない所だった。
「オヤジが空から落ちてきた・・・」
冗談でHさんは笑って言っていたが、スリルとかの問題で済んでしまったからよかったが、本当、危ない所だった。
サーフゾーンでのレスキューは本当に難しい。
食料はかなり余分に持って来ていたので大丈夫だが、嗜好品はそれほど残っているとはいえない。酒はもちろんなくなり、おかずになりうるものはない中、ラーメンにソーセージを入れ、打ちあがっていたマスの粗を入れ、浜にはえているハコベの葉を入れて食べる。波にもまれた衝撃で焚き火用の金網、鍋一つ、やかんの蓋が紛失していた。
マスの肉はフライパンで焼いたのだが、焚き火の周辺にはオゾマシイ量のヨコエビが跳ね回り、味付けの為にフライパンを火から下ろすとあっという間にマスはヨコエビだらけになってしまった・・・!そのためなのか、僕の味付けが悪かったのか、それともただ単にマスに飽きたのか、みんなマスを食べる箸は進んでいなかった・・・。
7日目
滝ノ下→ペキンノ鼻→相泊
昨日と同じく朝 3 時起床。焚き火に火をつけ、お茶を煎れて再びラーメンを作り朝食を用意する。
昨日までより明るくなるのが早い。それもそのはず、羅臼側に来た事で夕日は見えなくなったがすさまじい勢いで明るくなる朝日を拝む事ができるようになった。
海はベタ凪。風も波もなし。最高のコンディションだ。
明るくなって焚き火の周りを見ると、大量のヨコエビが焚き火で焼けたのか、砂のように掘っても掘っても赤くなった死骸がでてくる。
「これ、知床名物、シレトコエビって、言ったら観光客の人たちは買うよな~」
「世界遺産の味」
「ワンパック 1000 円にして一日 30 も売れればかなりの収益だな」
「杉さん、やらない?」
最終日にして、やっと確実に、どう見ても条件のいい海にみんな喜んでいる。冗談で笑う声にも張りがある。誰も疲れた様子は見受けられなかった。
6 時頃出発。サーフに気を使う事なく、順調に船は進んで行く。
ところが杉さんの船の様子がおかしい。どうも穴がまだあったようだ。羅臼コンブが打ちあがるゴロタ浜に緊急上陸する。ここで他の心配な舟にも樹脂を塗り、乾くまでの 2 時間、休憩となった。
8 時半に再び出発。
杉さんの舟にはそれでも水が入ってくるようだったが、定期的にビルジーで水をくみ出せば漕げないレベルではないようだ。
船団はそれまでとはうって変わったすばらしい知床の海岸線を眺めながら前進していった。ただ台風の影響か、沿岸域の緑は塩害で茶色く変わっていた。
新谷さんも普段のやり方通り、海岸線を舐めるように漕ぎ、場所によっては時間短縮のために最短距離を漕いだ。
ペキンノ鼻も無事に通過。船泊では前回見ることができなかった「カヤックじいさん」も見ることができた。
12 時 15 分、僕らはカラフトマス釣りに興じる釣人の間をくぐり、相泊川の河口に上陸した。
遠征は終わった。
厳しい状況ではあったが、無事帰ってこられたことにみんなで喜び合う。
記念写真を撮ると、みんなでカヤックと中身の荷物を道路に運ぶ。その間に新谷さんはヒッチハイクで北浜まで行き、自分の車を持ってきてキャリアに僕と杉さん、ナオさんなどが手伝いカヤックを詰め込み、荷物は女の人達が中心になって片付け、車で先に番屋に向かう。その後、新谷さんがやってきてカヤックと僕らを回収していった。
一連の撤収の流れはまさに絵に描いたようにスムーズに進んで、このチームがどれだけの苦楽をともにしてきたがわかる。
番屋で荷物を整理し、潮抜きなどやっている間にみなさん航空券を押さえるのに必死になっていたが、なんとか誰ももれることなく帰れるとの事だった。
だが、日程的には 1 日分押している事には変わりなく、多くの人が今日中に羅臼を去るということだった。皆でアドレス交換をし、別れを惜しみながらも午後 3 時頃、H夫婦と彼らに札幌まで連れて行ってもらうK地さん、そして僕、ナオさん、H山さん、Fさんの旦那さんを残し、皆さん寿司詰めのハイエースで女満別空港に向かって去っていった。
Hさん達もそれからしばらくして去っていった。
なんだか、ものすごい急に祭が終わったような寂しさが訪れる。あれだけたいへんな思いをしてきたメンバーだったのに、あまりにも別れはあっけなかった。
番屋の石田さんが五右衛門風呂を沸かしてくれ、Fさんやナオさんと交代で入る。そして潮抜きしたものや乾かしたい物を整理し、キャンプ道具などを整理して、残ったメンバーで今回の知床 EXPEDITON の話を石田さんに話す。
石田さんは昨日帰ってこなかったことに関しては特に心配していなかったようだが、さすがに今日帰ってこなかったら保安庁にでも連絡しなければならないなと、心配していたようだが、僕らの話を聞いて納得したようだった。
たまたま漁師の人からカニをもらったらしく、この日は蟹づくしだった(帰ってしまった人達、ゴメンなさい♪)。石田さんがカニ汁とサンマの蒲焼丼を作ってくれ、僕らはそれを夕飯に食べて、塩茹でされたカニ(イバラガ二と言うらしい)を食べつつ酒を飲んだ。ちょっと濃い目の味付けが最高にうまく、遠慮もせずに皆でむさぼり食った。
やはりカニを食べると会話ができない。困った物だ(笑)
ちょうど衆議院選挙の投票日で、石田さんは選挙の選挙管理委員として学校に向かい、僕らは宿でお留守番という事になった。
そういえば選挙だったのである。僕は地元千葉で誰が出ているかさえもわからないでいた。
4 人で新谷さんを持っていると 9 時頃、ワインをもって新谷さんが帰ってきた。異様なまでに新谷さんのテンションは高かった。
「よ~し!それじゃぁ、皆さん、飲みましょうか!アカツカクン、これ開けてくれ!」
お客さんを全員帰したことで緊張の糸が解けたのか、新谷さんは終始笑顔で僕らも今回の知床行きの感想やら、思い出話などに花を咲かせた。僕もこのツアーで赤ワインが好きになってしまったのか、苦手なワインも美味しく感じるようになっていた。
今回で 73 回知床半島を回った男は、今回の知床は今までの中で一番きつかったと、最後になって僕らにもらした。それまでにも僕は知床 EXPEDITON の様々な逸話を様々な人から聞かされていたのだが、それ以上の体験を自分がしたことが不思議でならない。とにかくそのような現場にいれたことが、何よりも誇りに思えた。
知床に残ってよかったと思う。カヤッカーとしてはこれ以上にない体験をしたのだ。
12 時頃、石田さんも選挙から帰ってきて、半分寝かけていた新谷さんも起きて、再び飲みだす。あまりにも話が盛り上がってしまい、気付いた頃には 2 時を回っていた。だが、そんな事はおかまいなしに新谷さんはヴァイオリンを取り出し、坂本九の「みや~げてごらん~よるの~ほ~しよ~」とやった。
正直、いつ寝たか僕は覚えていない。
『アウトドアに騙されるな!』
翌朝、睡眠時間の割にはずいぶんとサッパリと起きられた。
H山さんが昨夜のカニ汁でカニ雑炊を作ってくれ、それに新谷さんが持ってきた青唐辛子の漬物と納豆をかけると、朝からずいぶんと食べてしまった。
Fさんが8時半頃、知床縦走に出かけるというので新谷さんは彼を送りに行った。
Fさんは変わった経歴の持ち主だ。
それまでやっていた仕事を辞め、40歳手前にして、それまでやりたくてもできなかったアドベンチャーレースの道に入った。そしてそこで出会ったシーカヤックに目覚め、僕が奄美にいる時にちょうど、本島を単独一周していた。那覇にある漕店の協力で行ったらしく、大城さんやちょうどその時220キロ遠征を完漕した八幡さんにも会っていたというので話が盛り上がった。10月にはニュージーランドに行き、就職活動も兼ねているといいつつも、しっかりアウトドアしてくるという。
「今まで真面目に働いてきたからね・・・このくらいはいいかな・・・と」
Fさんの生き方はある意味理想的だ。しっかりとした社会的地位も得つつ、自分のやりたい事をやっている。
僕はあまりにも刹那的に自分のやりたい事をやっている。その辺にいるフリーターよりはましだと人には言われるが、実質は変わりない。今、僕や僕のやっている事に社会的な意義があるのかといえば、ただの遊び人でしかないと思う。若い人がやっているから許されるのだ。それは誰がなんと言おうと事実だ。
Fさんを見ていると、自分のやりたい事をやって行くやり方というのは僕のとった手段以外にもあるのだと、まざまざと見せ付けられたような気がしたのだ。
Fさんがいなくなってから、僕は乾かしていた自分の荷物を片付けて、昨日から干しているテントなどの備品を整理する。テントは急いで干されたので生乾きで、それをめいいっぱい広げ、水浸しになった調味料を整理したりしていたらあっという間に昼を過ぎていた。
ナオさん達もちょうどその頃、番屋を出た。今日はまだ羅臼のキャンプ場に泊るというので僕の予定と一緒で、また会おうと挨拶すると、二人のバイクはあっという間に見えなくなってしまった。
お茶でも飲んで一服しようと部屋に戻ると新谷さんも帰ってきた。
僕は知床半島を完全に一周するべく、Fさんではないが、羅臼から羅臼岳に登り、そのまま宇登呂に抜けようと考えていた。そのため、この日は羅臼岳登山口のある羅臼国営キャンプ場に移るつもりでいた。新谷さんに言うと送っていってくれるというのでお言葉に甘える事にする。
しばらく新谷さんと話をする。
なんだか僕の人生相談みたいな話になってしまった。
こんなフラフラした事をやっている僕に対し、新谷さんは厳しかった。この旅で出会った多くの人がこの旅を羨ましがり、「いい旅しろよ」と言ってくれていたが、新谷さんは普通に「しっかり働け」と忠告した。それはあまりにも放浪癖のある友人に囲まれて、ここまでやってきてしまい調子の乗った僕には鋭い一声だった。
「自分のやりたい事を、自分の力だけでやりたいならちゃんと生業を持たなきゃダメだ」
僕はこんな事をやっているから、あまりにも楽天的な奴だと思われている節がある。だが、内心は自分の人生に対してものすごく不安だ。自分でも何になりたいのかさえ、年甲斐もなくわからないし、その答えを早く求めている。
カヤックのガイドになりたいと思っていた時期もあったが、色々と考えるところがあって、未だにふん切りがつかない。こんなホームページを開いて自己満足的にこんな報告を発表しているが、マスコミの世界に特別興味があるわけでもない。むしろ嫌いだ。
とりあえず自分のやりたいと思う事をこなしていく事が、自分にとって一番有益だと思ってやってきた。最優先にしてきた。だが、そのタイムリミットは確実に迫ってきているのは目に見えている事で、それをダマシダマシ考えながらこの旅も行っていたが、自分のカッコいいと思う人にそのカッコ悪さを鋭くえぐられ、突然自分のやってきたことが見えなくなってしまった・・・。
カヤックはカヤックで、趣味でもできる。実際、業界では有名でなくても、かなりの腕を持っていて、自分で遠征資金を稼ぎだして自分の中の冒険をしている人がたくさんいるのは知っている。新谷さんはたまたま山岳関係で有名だったので今でこそカヤック業界でも有名人だが、むしろこのタイプのカヤッカーだと思う。
カヤックをとりあえず、一生懸命やってきた僕だが、では今なにを生業にするかと聞かれたら、カヤック以外でなにが僕に残るのかとわからなくなってしまった。職業カヤッカーにはなりたくないと思っていながら、僕にはカヤック以外の何で飯が食えるのかわからない。そのカヤックでさえ、プロとしてやるほど特別な才能が自分にあるとも思えない。
Fさんの出現と、新谷さんのこの一言は僕の悩みを複雑にさせるには十分だった。
時間がきて新谷さんに送られて羅臼の街まで行く。
なんだかその場から逃げ出したい気分になり、買出しをして歩いてキャンプ場までいこうと思ったが、新谷さんが「いいから乗っていけよ」と言うので車に再び乗り、キャンプ場まで送ってもらった。
新谷さんのカヤックはレジャーではなく、あくまでスポーツだ。のんびりゆったりの物ではなく、一瞬一瞬のうちに目まぐるしく変わる自然環境下で、どう状況判断し、決断し、行動するか。まさに登山家ならではの冒険的なカヤックだ。そしてその技術がシーカヤックの最も重要な技術であり、カヤッカーに求められる物である以上、その技術に長けた新谷さんが日本のシーカヤッカーの中で最もすぐれたガイドだといわれる由縁であると思う。
多くのアウトドア業界の人は楽しいカヤックを主に主張する。それはレジャーとしてカヤックを取扱っている業界としては当然のことだと思う。だがその一方で楽しい事ばかりが先走り、安全面や海を知らないでカヤックをやる人達も多くいる。
「知床の海では海抜0mでヒマラヤの7000m級とほとんど同じように環境が変化するんだよ。海はおっかねえよ・・・。だけどアウトドアの連中はそんな海の怖さをわかっている奴が少なすぎる」
各地講習会で多くのカヤッカーがレスキューやナビゲーションを習う。ブローチングやサーフでのエントリー、エキジットなどの技術も学ぶ。そしてエスキモーロールを学ぶ。
技術はあったほうがいいに決まっている。僕も技術は欲しいし、新谷さんもそう言っている。だが、本当にそう技術が発揮される時というのは、どうしようもない状況にいる事の方が多い。大いなる海の怒りの前では人間は無力だ。
僕らがそれに対して行える対策というのはその場での状況判断と、経験による回避だ。 今回の知床EXPEDITIONでは、その経験さえ意味をなさなかったと新谷さんは自分のHPの中で述べている。自覚している人でさえ、過ちを犯すのだ。
だったら荒れた海など漕がなければいいとお思いかもしれないが、海の状況が一定であるという保障はどこにもない。また、決められた日程の中で凪ぎの日だけを漕いで目的地に着くのは運まかせである。
何百回、ベタ凪の海を30㎞漕ぐよりも、数回荒れた海を5㎞漕いだ方がシーカヤックは上達する。それは技術レベルではなく総合力が・・・である。そんな事を今回どこかで聞いた。
僕は自慢ではないが、荒れた海や、劣悪な環境下でのパドリングは西表島での修行時代に何度も経験している。それがファルトボートを買って自分で漕ぐようになってから、とても宝になっている事に気付きはじめた。だから新谷さんが主張する事はよく理解できるつもりだ。
今回の73回目のEXPEDITONはまさにそれを自覚するには有り余るほど十分な経験となった。
その状況判断をくだす訓練をするのに、知床は最高のフィールドだという。知床はまさに現代に残されたカヤッカーの聖地だと主張されるのは、世界自然遺産に認定されたからとか、ありのままの自然が残されているからといった観光者側からすれば「見た目」やOutdoorのフィールドとしてだけの問題ではなく、知床のおりなす環境全体が宝だというのだ。
「知床はその自然環境の厳しさこそが財産だ」
つまり何故「知床EXPEDITION」が「知床TOUR」でないのかというのはそういうことなのだ。これはカヤックでの利用以外にも当てはまる事である。
僕は新谷さんと出会って、実際に知床を漕いだ事で、新谷さんの著書「アリュートヘブン」に書かれていた事をよく理解する事ができた。わからなかった事が繋がって来た。
当初、新谷さんに会ってみたかった目的は見事にはたせたと思う。
そしてさらに自分の個人的な分析までもされてしまった・・・。
熊の湯の駐車場で下ろしてもらい、僕は新谷さんと別れた。
別れ際に新谷さんは利き腕の左腕を出し、「がんばれよ!」と言って握手を求めてきた。厚くて熱くて、力強い握手になんだか猛烈に嬉しくなってしまった。
「アウトドアに騙されるなよ!」
その一言に表された新谷さんのアウトドアは、僕の考える『Outdoor』と意味合いが異なるかもしれないが、意味は十分伝わった。
僕の旅は事実上この瞬間、終わろうとしていた