第三章 奄美加計呂麻シーカヤックマラソン参戦紀+ツーリング便乗記
鹿児島県 奄美大島 加計呂麻島
2005年7月1日~7日
奄美大島初上陸!
6月30日。本部港からマリックスラインのフェリー「クィーンコーラル」に乗り込んだ。
フェリーは沖縄本島の沿岸を進みながら辺土岬をこえ、与論島、沖永良部島、徳之島を通過し奄美大島の名瀬に到着する。
僕がこのフェリーに乗っている時、ある男の人は宮古諸島の池間島から久米島までの220㎞を単独カヤックを漕いでいた。その人はその1年前に同じように単独で沖縄から奄美諸島、トカラ列島を経由して鹿児島まで漕いでいたのだが、僕はフェリーで沖永良部島や徳之島を通るたびに「この距離をカヤックで漕いでいくのかー・・・すげぇなー」と、「自分ならできるもんかなー??」と色々想像しながら船旅をおくっていた。
その220㎞の旅は無事に成功したようで、その結果を知ったのは屋久島に着いてからの話なのだが、確かにここ数日は非常に天気が安定していて、遠洋航海にはもってこいの海況だった。
ちなみにその人は今、石垣島でアウトフィッターをやっている。ご存知な人も多いと思いますが、その人はよく僕の話に出てくる八幡暁さんです。
その日の夜8時半頃、フェリーは名瀬港に到着。少し北上したからといって涼しくなるなんて事はなく、気候は沖縄のままである。
だが、ターミナルに着いてみるとベンダーの缶ジュースが110円から120円になっていた。沖縄は何故か自動販売機がみんな110円なのであるが、ここはさすが鹿児島県、通常の値段になっていた。すこし寂しい・・・。
近くの公園で野宿でもしようと思ったが、どこにもそのような場所はなく、地元の悪ガキたちが徘徊する思いのほか都会的な名瀬に驚いた僕は、近くにあった民宿に素泊まりで泊る事にした。シャワーが浴びれてテレビも見れて、布団で眠れて2700円なら上等だと思ったが、やたらと暑い部屋で扇風機もなく、汗だくになりながらビール飲んで寝る。
翌朝、7時のフェリーで今度は名瀬からカヤックマラソンの行われる瀬戸内町の古仁屋まで行く。最初はバスで行こうと思ったが、船があるなら船がいい。値段も安いし、大量の荷物でも他の客に迷惑がかかりにくいからだ。
その船に乗り、ヤレヤレと汗をふいていると、サングラスをした怪しい兄さんが話しかけてきた。
「おにいさん、もしかしてカヤックレース出る人??」
ええ、そうですけど・・・と答えると、その人も参加するとのことだった。ところがこの人、職場に無理やり休みをもらって出るのはいいがシーカヤックはこれで2回目だと言う。奄美大島の隣にある島、喜界島の人で名前はWATARUさんというらしい。 カヤック始めて今回が2回目だというのに、日本で有数のメジャーな大会である奄美のシーカヤックマラソンに出るという意気込みと、経歴が面白くてしばらく話しこんでしまった。
古仁屋には4時間ほどで着いた。陽射しが猛烈に強くてかなり暑い! ターミナルとはいえない休憩所のある建物から歩いて古仁屋漁港に歩いていくと、鉄パイプで作った簡易艇庫が用意されており、数艇のカヤックが置いてあった。とにかくカヤックを持ち歩くのがダルいので、さっそく組み立てて、自分のゼッケン番号の場所に置いておくことにする。
暑い。とにかく暑い。
沖縄でもこんなに暑かったっけか?と思えるほど熱い炎天下の中、汗をたらしながらカヤックを組み立てる。隣でもカヤックを組み立てる人が数人いた。
やっとの思いでカフナが組み立て終わり艇庫に入れておく。
その後、瀬戸内町から送られてきた宿泊施設案内表を見て、一番安い宿に電話すると部屋は空いているという。イベント前で混むと思っていただけに嬉しい誤算だ。早速、言われた場所に歩いて行ってみる。
宿は港から10分ほど歩いたところにあるAコープの目の前だった。宿泊案内には3000円とあったが、管理しているおばさんに会ってみると2500円でいいと言う。ベットつきのシングル個室でこの値段なら申し分ない。レース期間中の3日分借り、さっそく遊び道具だけもって再びカヤックのある場所まで行く。
古仁屋漁港のスロープから舟を出し、そのまま東に向かってヤドリ浜を目指す。 まずはレース前にフィールド視察だ!・・・という理由ではなく、ただ単純に奄美大島の海を見てみたかったのである。古仁屋の漁港には大量のキビナゴが泳いでいて期待は膨らんでいた。
奄美大島と加計呂麻島の間にある大島海峡。ここが今回のレースの会場になる。地図で見ると大きな奄美大島と加計呂麻島の2つの島に囲まれてだいぶ静かなように思えるが、実際は山筋から風が入りこんでくるし、水深も深く、海底が複雑なせいか潮流がかなり速く強い。大きなうねりは入ってこないものの、いったん荒れると波と波がぶつかり合い、厄介な海になってしまう。 特に潮流はやっかいだ。昨年、第12回大会では大潮+台風にぶつかってしまい、多くの人が海流の速さと風で転覆、リタイヤしたという。
たしかに大島海峡は複雑な流れをしていたが、この日の天気はとてもよく、海流の速い所はパスし、もしぶつかってもパワーでなんとか乗り切れるほどだった。
それはともかく、同じ亜熱帯気候の土地柄だが、沖縄に比べると森が深く、地形がダイナミックでソテツが多い岩礁帯が続き、奄美大島特有の風景を作っている。隆起サンゴ礁が多い沖縄に比べ、奄美は岩礁がむきだしの場所が多いのである。 ある岬を超えた時、あまりのきれいさと暑さに、ふらふら~っと、その岬の裏にある入江にすい込まれてしまった。
バラスでできた浜に上陸し、カヤックを潮上帯まで引っ張りあげると、マスクとシュノーケル、フィンという三点セットだけつけて早速潜ってみる。
カヤックで水面から見ていた時に比べれば透明度はいまいちだったが、それでも海底に写る光の影はきれいだ。死んだ枝サンゴが多いのも気になったが、魚も多くほとんど沖縄の海と変わらない。水面付近には港で見たとおり、大量のキビナゴが群で泳ぎ回っており、時折それらが別の物を見ている自分の視界の中に入って通り過ぎてゆくのは壮観だ。
すこし沖に出ると、一面、ソラスズメダイに覆われた場所があった。わざと驚かすと群は「バッ」と、枝サンゴの隙間の中に入ってしまう。そしてしばらくするとみんな出てくる。その枝サンゴの隙間の中をのぞくと30㎝近いイシミーバイがたくさんいる。イソギンチャクには必ずクマノミが夫婦で共生している。
奄美大島の海はなかなかに華やかだ。
せっかくだからと釣りもする。メタルジグとミノーを投げるとイシミーバイとアオヤガラがやたらと釣れた。食べる気はないので全てリリース。 何だか随分と楽しんでカヤックを漕ぎトローリングしながら古仁屋に戻った。
古仁屋に着くと、これからカヤックを漕いでいこうとする人を発見。話し掛けるとヤドリ浜でキャンプしながら明後日、レースに出るという。
んーその手もあったか!
今更言ってもしょうがない。そういえば今日漕いだだけで随分と多くのカヤッカーを見た。加計呂麻島から来ている人もいた。いやーレースが楽しみになってきましたなー!奄美初日の海はかなり満足行く面白さだった。
次の日は午前中、カヤックレースのコース下見で数人ずつ漁船に乗り、明日のコースをたどって行く。漁船に乗って走ればあっという間だろうと思っていたが、これがけっこう時間がかかる。こんなに漕ぐのかよーと、思いつつもしっかり船頭さんが話すコースのポイントを頭に入れておく。
乗船していた船には、3月に西伊豆でお会いしたYさんも乗っていた。久しぶりに会って挨拶をする。この人も僕と同じフェザーオーナー、しかもカフナ乗りなので俄然ライバル意識が持ち上がってくる。御互いの健闘を祈り別れた。
その日の夜、来る時にフェリーの中で会ったWATARUさんから電話があり「いっしょに飲まないか?」というので彼らが飲んでいる居酒屋まで歩いていく。
WATARUさんは瀬戸内町で働いている彼女と飲んでいた。彼女が喜界島で働いている時に知り合い、付き合いはじめたが今はたまに会う程度だという。なるほどー彼女に会う名目で瀬戸内町のシーカヤックマラソンに参加することにしたんですねーと、突っ込むとニヤニヤしながら「でもカヤックにも興味あったんだよ!」と言い返されてしまった。 シーカヤックの話もそうだが、潜りをやる話をしたらWATARUさんもスキューバーをやるそうで、それももうイントラ並に潜っているそうだ。サーフィンもするそうだし、マリンスポーツ大好きといった感じだ。
「いやー、アカツカ君、喜界島来なよー、君なら絶対面白いよ、喜界島!」
WATARUさんはあまり強くない酒に顔を真っ赤にしながら何度も僕にそう言った。色々と問題も多い島での生活だが、自分の生まれた場所にポリシーを持てるという事、島が生まれ故郷であるというのは僕のような生まれ故郷に対してのアイデンティティーがない人間には羨ましく思う。WATARUさんは喜界島が大好きなのだ。彼のようなシマンチュにあうと僕は西表での生活をついつい思い出してしまうのである。
2人と別れ、宿に戻るとレースの事で不安ではないと思うのだが眠れず、深夜に親しい友人と久しぶりに電話し、なんとか眠る事ができた。
奄美シーカヤックマラソンは地元密着イベントだから面白いのだ!
7月3日、第13回奄美加計呂麻シーカヤックマラソン本番である。
シーカヤックを始めた頃から雑誌などを読むとこのイベントが毎年のように紹介されていた。西表島でも鳩間島へのレースにはこのレースの出場者が参加し、上位に食い込んでくる。シーカヤックをやっている以上、どこかで引っ掛かってくるイベントがこの奄美でのシーカヤックマラソンである。
カヤックメーカーはこのレースに勝つ為だけの舟を開発するくらい、日本のシーカヤック界の中で注目されているイベントでもあるのだ。
西表島でのレースでも上位に行けない僕がここのレースで上位にいけるとは思っていない。だが、ここのレースにはカヤックの種類によって部門が分かれており、その中にはファルト部門というのがあるのである。これならひょっとすれば上位にいけるんではなかろうか??しかも昨年のような荒れた海況ならレース用の舟では転覆者続出、悪天候対応カヤックであるカフナであれば、けっこういいとこまで持っていけるんじゃないか???と、甘い願望も少し持っていたりした。
8時半までにカヤックを古仁屋港内に下ろし、水上待機。天気はあいにくの晴天ベタ凪・・・。
海上にて開会式が行われ、そのままの状態で9時30分にタンデムのフルマラソン選手がスタートした。そしてその10分後、我々シングル、フルマラソンの部の選手もスタートとなった。
スタート直後、なんだかスタートの合図と選手の戸惑いが重なり、ぐちゃぐちゃな感じになった。なんでもスタートする順番が微妙に曖昧でスタートの合図を無視して他の部門の選手が出てしまったり、それにつられてしまった選手が多かったようなのだ。このことは未だによくわからないのだが、ともかく僕は出発した。隣のカヤッカーとパドルがガチガチとぶつかり忌々しい!先に周りの奴らを行かせ、その後、彼らを抜いて行ってやった。
今回のコースは昨年の転覆者続出を避けるためにけっこう短めになっていた。それでも32.5キロ。なかなかの距離だ。
古仁屋漁港を出発し、東に島沿いに漕いで嘉鉄に行く手前で海峡横断。ここで実際より内側を漕いでくださいと言うので多くの人がフェリーグライドをしていたが、開催者側が思うほどの潮流の流れはなく、直線で進む人のほうが得だった気がする。ここで渡連のビーチで上陸しチェックを受ける。
その後加計呂麻島を西に岸沿いに漕ぎ、生間を通り再びスリ浜で上陸。ハーフコースの選手はここから海峡横断してゴールの古仁屋に戻るが、フルマラソンの選手はさらに西に向かい勝能、押角、呑之浦を通過し俵小島に向かいここで最後の上陸チェック。ここから最後に怒涛の海峡横断で古仁屋に戻るというコースである。直線距離で漕げばあっという間なのだがいちいち入江をなぞるように漕いで行くので見た目以上に大変で精神的にきつい。
僕の作戦としてはとにかくペースをみださないということに尽きる。そして上陸地点はしっかり休み、無理はしないようにしようというものだった。作戦というほどのものではないな・・・。パドルはもちろんグリーンランドではなくコーモラントを使いフェザーリングで漕いだ。100キロマラソンとかならグリーンランドも選択肢に入るがこの距離ではやはりフェザーリングが良さそうだ。
最初の上陸地、渡連までは正直余裕だった。上陸しても麦茶をもらい、「いやーさすが奄美のマラソンは人が多いなー」などと言っているほどだ。だが、出発前はみんな「休憩所にはけっこう長くいちゃうんだよなー」とか言っときながら、いざレースが始めるとどいつもこいつもあっという間に出発しちまいやがる!これはうかうかしてられないと僕も急いでカヤックに乗り込み出発する。
それにしてもこのエイドステーションのサポートが実にいい。
オレンジのTシャツを着た地元女子高校生や役場の人がサポートしてくれるのだが、上陸するとすぐに麦茶やバナナ、おにぎりなどの行動食を用意してくれるので思わず手が伸びてしまう。出発する時も「がんばってくださ~い!」と言い、カヤックを押してくれる。なんだかいたセリつくセリだ。
再び次の上陸地点まで漕ぎ、ここでも麦茶とバナナをもらうが、無理やり口につっこんですぐに出発。
さすがにここまで来ると余裕がなくなってきた。
入江の中に入るため、風がまったくなく、非常に暑いのだ。
定期的に海水をかぶったり、もらった麦茶を顔にかけたりして体温を下げる事に従事するが、こんなクソ暑い気候の中で全身運動を絶えず行っているのだから暑いに決まっている! しかも20㎞をこえるとさすがに疲れてきてパドルを水に入れた瞬間の抵抗が重く感じる。さらには押角や呑之浦では猛烈な吹き降ろしの風があり、入江に入るのにえらく苦労した。
俵小島での最後の上陸ポイントは別にカヤックを下りなくてもいいのだが小便したさに下りてしまった。この頃から天気が悪化してきており、海は荒れ始めていた。タプタプと揺れる波の中カヤックに乗艇し、最後のゴールまでの直線をイッキに漕ぎぬけて行く。
この直線が何気に一番きつかった。最後だからということもあるが、追い波、追い風なのはいいのだがゴール直前になってコンクリートの岸壁にぶつかった返し波と通常の波がぶつかって、複雑な三角波を作っていた。他にも海流や海底の地形も関係すると思うが、とにかくこの港の入口が最も神経を使った。
ゴールの目印に浮かんだバルーンには助かった。正直どこがゴールだかよくわからなかったからだ。古仁屋漁港の入口に入るとゼッケン番号から調べるのか僕の名前を呼んで「頑張ってくださーイ!!」と実況が叫んでいる。
無事ゴール!あとでタイムを聞いたら3時間47分15秒との事である。4時間切れればいいかな~と思っていたのでこのタイムには満足である。
よろよろとカヤックから降り、特設の浮き桟橋に上がる。自分でカヤックを持ち上げようとすると「あーッ!!いいから、いいから、こっちであげるから休んでください!」と、オヤジがかけてきてカヤックを港の上まで運んでくれ、さらにはホースで真水をかけて洗ってくれ、艇庫まで運んでくれるではないか!
だ、大感動である!
こんなサービス、単独ツーリングカヤッカーである僕には感動モノである。 つづけてYさんもゴールし、しばらく話した後、ファルトで参加した他の人たちと用意された昼食を食べにいく。地元の婦人会の方達が作ってくれた郷土料理に、何だか妙に腹が減っていた僕は運動の後だというのにおにぎりを5個も食ってカツオの粗の入った味噌汁をおかわりしてしまった。
みんなでレースの事を振り返りながら話をし、後夜祭でまた会う事にして各自別れていった。僕もいったん民宿に戻って一休みする事にした。体に残る若干の疲労感が気持ちいい。WATARUさん達とも合流。なんとか完走できた様だ。
6時頃、フェリーを降りたターミナルのある埠頭の広場に特設ステージができており、僕が着いた頃にはすでに島唄を歌っている女の人が出ていた。並べられたパイプイスにはすでに多くの人が座っている。 さっき会ったK‐1オーナーのIさんが手を振っているのを発見。事前にもらった食券で夕食とビールを手にいれ先にイスに座ってみんながくるのを待っているとポツポツと現れてきた。
ステージの上では後夜祭の開会式が始まり、瀬戸内町町長によって乾杯の音頭がとられ、僕らもみんなで乾杯、ビールを飲んだ。まぁまわりではすでに飲んでいたけど・・・。
ステージの表彰式が始まる前に、今回の順位表が配られた。それを見ると僕はフルマラソンシングルの部総合で39位、ファルト部門で5位という結果だとわかった。これがすごいのか、悪いのかは僕自身もよくわからないのだが、たいしたトレーニングもしてない割にはよくやったんじゃないかと思う。
表彰式が始まり、各部門の上位3位までが表彰された。ちなみに1位の笹川さんのタイムは2時間45分43秒。僕より1時間も速いのである・・・!2位の崎原さんは西表島のレースでもお馴染みの人だが、その優勝常連の崎原さんまで2位ということで僕の中では2人がどんなデットヒートをしていたのか創造でき、何だか恐ろしい世界である事は間違いないと悟った。
さらに驚くべきはファルト部門の優勝者である。なんと舟がK‐1!常連の人達が色々舟をいじっているのにもかかわらず、ノーマルなツーリング艇で優勝してしまうんだからとんでもない・・・。後日この優勝者の人を郵便局で見たのだが、K‐1のパッキングしたバックを2つ、両手に一つずつ「ヒョイヒョイ」という感じで持っていた・・・。あのパワーならわかる気がする・・・。んーつまりカヤック云々ではなく、力なのですね。俺もビルドアップするか・・・。
その後各賞品が渡され、抽選会なども行われたが、僕には何もあたらなかった・・・。あー「里の曙」欲しかったなー。
その後奄美大島出身の歌手やバンドの人が出て島唄を歌ったり、三線弾いたりしていた。沖縄民謡はけっこう聞いているけど、奄美の島唄ははじめて聞くのでかなり新鮮だった。とくに三線の弾き方が違う。沖縄は爪を使うけど、奄美は楊枝の様な物で弾いていた。そのためカケムチ、早弾きなどが多く、沖縄民謡とは異なる音で面白い。どちらかと言うと内地の音に近い。唄も沖縄よりは内地の民謡に近い気がする。
3年前には元ちとせが来て歌ったらしい。
トリは地元のバンド、「ピンポンズ」。ふざけた名前だが、僕の弟がやっているバンドもふざけた名前なのでナントも言えない・・・。ピンポンズの一人はWATARUさんの友人らしく、彼はそれをやたらと宣伝していた。そんな事を考えていたら、WATARUさん、彼女と共にステージに乱入!!それに便乗してパンクバンドのような格好のカヤッカーも乱入!!!ステージのボルテージは最高潮!!曲も沖縄で言うカチャーシーモノになってみんなで踊りくるいだした。
正直、僕も踊りにいきたかったのだが、周りにいた人達がそういうアホな事には無縁そうな方々だった為、なんだか飛び出して行く空気ではなく断念・・・。
そうこうしているうちに六調が流れ、アンコールまで起き、ステージ上はおどる阿呆、その下に見る阿呆が居座り、怒涛のうちに後夜祭は終了したのだった。
奄美も最後は八重山みたいに六調なのだな・・・というのが驚きだったが、そんなことに興味を抱いているのは俺だけのようだった。奄美で飲む黒糖焼酎も美味かった。みんなで記念写真を撮り、今年の奄美のシーカヤックマラソンは終わった。
気をつけろ、甘い言葉と見知らぬシーカヤッカー!
翌朝、だいぶ遅くに起きてしまったが荷物をかたし、Aコープで買出しした後、12時にチェックアウトする。
今日からは宿を出てヤドリ浜でキャンプしながら周辺をツーリングしようと思っていた。
バカデカイ荷物を背負い、古仁屋漁港に行くと多くの人達がカヤックを梱包したり、かたしたりしていた。そのうちの一組、K‐2を解体している夫婦に話し掛ける。レースの時から気になっていたのだが、その夫婦は昔、西表島の「南風見ぱぴよん」のツアーでいっしょに網取まで行った夫婦だった(ホームページ「bajautrip」EXPEDITIONの「ちょっと後輩と西表島無人地帯行ってきました」参照)。
久しぶりの再会にあれから何をやっていたかなど話した。こういう再会をするとカヤックやっていて面白いなーと思う。
挨拶もそこそこに別れ、カヤックをスロープに置いてパッキングをしていく。K-1のIさんもしばらくツーリングして行くようだ。 僕ら以外にもリジットの船が何艇か置いてあり、ツーリングに行くようだ。
パッキングを済ませ、トローリング用の仕掛けを作っているとリジット艇の人達のリーダーらしき人が話し掛けてきた。なんでも今回、奄美ではじめて釣をするのだが、どんな仕掛けが良いか、釣りに詳しそうな僕に聞いてみたそうだ。話をするにつれ、僕がヤドリ浜まで行くというと、今日の風ではヤドリ浜はモロに風を受けてキャンプどころではないという。
「わしらと一緒に加計呂麻まで行かんか?」
別にヤドリ浜に執着していたわけではなく、奄美と言えばヤドリ浜のキャンプ場だろうとかってに考えていただけだったので、この話は「渡に船」であった。旅は道連れ、よい機会だ。よしよしと便乗することにした。
ところがだ。ところがですよ、海がすごい荒れていた。
正直言って普通なら出艇を考えるほどの風と波の中、僕らは直線で加計呂麻島に向かって漕ぎ出した。港の入口は昨日のレースで荒れるとわかっていたのでがんばって漕いで行くと、案の定、海峡の真ん中あたりではいくぶんマシになってきた。シングル艇のうち、2人は女性なのだが、この2人もなかなか速い。まぁこれだけ漕げればこの海でも大丈夫なのだろうと想像する。
30分かそこらで海峡を横断、近くの浜に上陸した。中尾さんがソフトクーラーからビールを出し、僕に渡してくれた。
「何はともあれ、まずは出会いに乾杯じゃ!」
そう言ってニコニコと栓を開ける。恐縮しつつもそこはビールの魔力に負け、僕も乾杯。ここに来て自己紹介などし、ちょっと休憩となった。
海を見て話をしていたら、すぐそこまで船がやってきて高校生くらいの子がルアーを投げて魚を釣っていた。ちょうど僕もタックルをつくってあったのでみんなの目の前で投げていたらいきなりヒット。イシミーバイが釣れた。
「オーッすごーい!もう釣っちゃったー!!」
正直誰でも釣れる魚なのだが、何だか気分がいい。たて続けにポンポンと釣り上げる。 中尾さんもせっかく釣り道具を買ったのだからと釣りに挑戦。メタルジグをつけていたのでとにかく引っ掛からないように早く巻くと良いですよとアドバイスすると、やっぱり釣れた。中尾さんウハウハ。奄美の海は寛容だ。内蔵とえらを取り、クーラーに入れておくことに。
十分まったりしたので出発する事になった。
今回、彼らのツアーの目的は加計呂麻島一周だという。しかしこの天気では無理だと僕は思った。仮にもしやるとしたら僕は途中で別れようと考えていた。僕は漕ぐよりも潜りたいからだ。だから途中まで参加すれば良いと思っていたのである。 ところが・・・である。西風に乗って加計呂麻島を東に進んでいき灯台をすぎたあたりで風下に入った。ここまで漕いで、その先にある岬をこえた浜に上陸するのだろうなーとかってに僕は思っていたのだが、いつまでたっても上陸する気配がない。 気付いたころには大島海峡からは出て、外洋の海に出ていた。大きなうねりが入ってくる上に、狭い水路は怒涛のように潮が流れる。
「なんでこんな荒れた日にワザワザ外洋に出るんだーッ!!」
正直、なんというショップに同行してしまったんだと後悔した。みんなは普通に漕いでいたが、実際この時の僕は昔、西表島半周の際に思った「リジットとファルトは相性が悪い」という事を思い出しており、パドルもグリーンランドだった。おかげで少しでも気を抜くとあっという間に抜かされてしまうのである。
かといって「じゃ、僕はここまで・・・」と離脱宣言をするのもシャクだったし、そんな間もなかったし、もうちょっと同行したいという気持ちもあった。だからやはり金魚の糞のようについていくのだが、海は漕げば漕ぐほどうねりが強くなり、島は絶壁になっていた。
「まぁ、人と一緒じゃなかったらこっちにくる事はなかっただろうから、これはこれでありだ・・・うん、そういうことにしよう、そうしよう」
そう自分を納得させ、パドルに力を入れるのだった。
1時間かそこらで徳浜に上陸。大規模なリーフに囲まれた広い砂浜でみんなで荷物満載のカヤックをアダンが生えているあたりまで運ぶとやっと上陸した気分になった。
風裏なので風は弱いはずだったが、まわってきているのか風は依然として強い。 まぁ、何はともかく水を浴びましょうということで集落を探索。あちこち見ているうちに公共のシャワー室がある事を知り、みんなそこでシャワーを浴びる。隣にはヤギがたくさんいた。奄美は沖縄以上にヤギをたくさん食べるようだが、確かにヤギは多い。再び歩いて上陸地に戻り、テントをたてて夕食となった。 その晩は僕の自己紹介みたいな会話とSTカンパニーの紹介みたいな話をした。正直あまり聞いた事のないショップだと思ったが、けっこう各地のレースに転戦し、カヤックメーカーなどからフィールドテストの以来なども受けているらしい。
僕がカヤックで旅をしているというと、「是非うちにくればいいさ!」「広島に来るといい!」とメチャクチャ勧誘されまくった。それはそれで嬉しいのだが、まだ彼らはわかっていない・・・。そう、僕がカヤック以上に魚を銛で獲るということが大好きな野蛮人であるということを・・・!!
最南端の寅さんロケ現場に行ってみる。
翌朝、来た道を戻るか先に進むか中尾さんは迷っていた。けっこう昨日ここまで来る岬の先端がやばく、向かい風だからよかったが追い風になるとちょっと危険だと判断したからだ。先に進むにしても一周するのはどうかと言う距離だ。
僕はこの先の入江の中にある諸鈍という部落に行ってみたかった。「男はつらいよシリーズ」で寅さんが来た場所で一番の最南端ロケ地であるということもあったが、ここのデイゴ並木が加計呂麻島に来たら見てみたいと思っていた場所だからである。
と、いうことでとりあえず諸鈍に行ってみるかという話になった。
出発時は干潮でリーフは丸出しになっていた。海を見て右側にリーフの切れた場所があり、あそこまでカヤックを引っ張って歩き、そこからカヤックを出して外洋に出ましょうと提案。そうすることに。
3人乗りのカヤック、ウォーターフィールド社の「グレートジャーニー」に乗って中尾さん達がまずパイロットに行き、大丈夫そうだということでみんなで出発。何だかえらい時間を喰ってしまった。
風は強いがうねりは昨日ほどではない。荒れた海を楽しみながら漕ぐ。体力がまだ残っている時は多少海が荒れているほうが楽しい。波がある場所を漕ぐからこそ「シーカヤック」なのである。 だけどそんなアトラクションもあっという間で、いつのまにか諸鈍湾の中に入り波はなくなってしまった。風はいっこうに変わらず強いが。
途中、静かな入江があったのでそこに上陸。みんなでシュノーケリングをする。 ここぞとばかりに銛を持ち、けっこう沖に出て岩下などをのぞく。さっそくトガリエビスがいたので突く。それを岩の上に放り投げ、再び潜りに行く。泳いでいる魚は熱帯の魚なのだが、サンゴはほとんどなく岩が剥き出しになっている。何がサンゴの着生を拒んでいる要素なのかわからないが面白い地形だ。
フエダイの仲間を追っていたら、目の前の根の真上に「ドーン!」という感じででかいオコゼが真っ白い色で居座っていた。やったぜー!!と狂喜乱舞し、頭にドスン。これで本日の夕飯は確保された。
みんなのところに戻り、オコゼの背鰭をナイフで取る。白い毒の液がにじみ出てきて恐ろしい。みんなはあっという間に訳のわからない魚を2匹獲ってきた男にやや引き気味な感じだった・・・が、食べてうまけリャ納得する物なのである。
魚をカヤックに入れ、時間もすぎてきたのでまた漕いで諸鈍に向かう。
諸鈍の浜ではレースに出た人だろうか、地元の人がカヤックを漕いでいた。浜はけっこう波があったので漁港のスロープに上陸。港にいたオヤジに話をすると、ここに泊めておいても良いという。テントもここに張ってもいいと言うので今日はここの街灯の下で寝ることとなった。 地元の人が立ち代りやってきては「ここに泊めるといい」「ここは車が通るから開けてくれ」と説明してくれるが「やめろ」とか「あっち行け」などという人はいない。とっても友好的でフレンドリーだ。驚くべきは集落のお年寄りまで「シーカヤックできたんかー?」と聞いてくるのだ。シーカヤックと言う単語をじいさん、ばあさんが使うというのはなかなか凄いことだ。さすが町をあげてシーカヤックマラソンをやっている場所だけある。カヤックという物が認知されているのである。
海水浴場のシャワーを浴び、「とらや」という移動式売店でビール、アイス、野菜などを買い込む。
海水浴場までは重要文化財にもなっているデイゴ並木が続いていて、かなりの樹齢を経ているデイゴが立ち並ぶのはなかなかいい景観だ。
「この木にハンモックたらして昼寝したら気持ち良さそうだねー」
そんな話をしていたら地元のオジィが入り込んできた。
「ダメダメ、今はケムシがひどいよ」
よく見るとデイゴの木から何本も糸が垂れ下がり、ケムシがぶら下がっているのだった。葉っぱも虫食いで穴だらけ。誰かの肩にも乗っていた。女の子の悲鳴が諸鈍の町に響く。 みなさん、これがリアルですよ!マスコミのきれいな写真だけに惑わされてはダメです!
寅さんの恋人、リリーが住んでいたという設定の「リリーの家」を訪ねるが、見た目はただの家にしか見えず、途中で引き返した。後日知ったのだが、強引に中に入ってしまえば玄関の入口に案内があったようだ。でも生活用具が窓越しに見えるので、知らなければただの空き巣みたいだよなー。
港に戻って獲った魚を調理する。高瀬貝のバター炒めとオコゼの刺身と汁。汁はしっかり煮なかったからか、皮の付着物をしっかり落としてなかったのか知らないが妙な苦味があり、西表で食ったときより美味くなかった。みんなには「これはウマいっすよ~!」と言っていただけにこの結果は納得できない物があった。シブシブ食べる。
夜がふけた頃、遊びで中尾さんがルアーを投げていたら40㎝ほどのギンガメアジを立て続けに2匹釣った。僕もやったがその頃には魚が散ってしまったらしく、それで終わり。でも中尾さんはこれで釣りにはまってしまった事だろう。さっそく刺身にして食べる。んー青物は美味い。
その晩は12時くらいまで話をしてから寝た。深夜、隣にある川にテナガエビがいたのでコッヘルで獲っていると、地元のオジィが長い棒を持ってやってきて「ハブが出るから夜はこの辺うろつくなー」という。こんな場所で噛まれたらたまらんということだ。それにしてもこんな時間でも僕らは見られていたのだな。やはり他所者は気になる存在のようだ。そのじいさんとしばらく話をし、なぜか戦時中の奄美大島の話になった頃、オジイは帰っていった。
翌朝、天気はいっこうに変わる様子もなく風は強い。地元の人も「ここはいいけど、岬の外に出たら船外機でもたまったもんじゃないぞ」と言うので、外に出るのを諦めた。
ではどうするか?昨日知り合った地元のおじさん(自称お兄さん)が軽トラを貸してくれる人を紹介してくれ、その人に頼み軽トラックを借りたのだった。これにカヤックを積んで数百メートル島の反対側の場所にある生間(いけんま)まで行き、そこで下ろせば大島海峡に出れるという寸法だ。女の子の一人が明日の飛行機で帰らなければならず、どうしても今日中か明日の朝には古仁屋には戻らなければならなかったのである。
カヤックを一艇づつ運び、なんとか5往復して荷物を全部運ぶ事ができた。最後は軽トラを貸してくれた兄さんも古仁屋にハブを売りにいくというので一緒に行き、生間で別れた。
イヤー随分と人に助けられた感じである。ありがとう、諸鈍の方々!
パッキングをし、生間の港のスロープから出発、西に進み、スリ浜をこえて古仁屋が真正面にある浜に上陸した。 大島海峡に出てからは風がなく、余裕だろうと思っていたのだが山からの吹き降ろしがキツく、突風が時々山から吹いてくるのでなかなかスリリングなパドリングだった。
ここで最後のシュノーケリングをする。ウエットスーツを着ての本気潜り。ただ、場所が場所だけに目ぼしい物はいなかった。目の前にある養殖いかだに行けばなんかいるだろうと思ったのだが、予想に反してメチャクチャ深い!!底が見えないのだ。30m以上はあったことだろう。岬に出ると潮がこれまたメチャクチャ速いし、怖いのでサンゴの中で戯れていた。数枚の写真を撮った後、武器を持ち替えコブシメの食べごろサイズを突く(1~2kg)。
クマノミとシャコガイが異常じみて多く、みんなには面白かったと思う。シャコガイは漁師が来て潜っていた場所だけゴッソリ無くなっていたのでおそらく種苗法流でもしているのだろう。いろんな色の物が一つの岩についていて綺麗だった。
僕が潜りすぎてしまった為、出発が5時近くになってしまった。申し訳ない・・・。何だか途中で抜けるつもりだったのに最後までいる結果になってしまった。
古仁屋に向かってみんなで漕ぎ、6時くらいに漁港に到着、スロープでカヤックを水洗いし、STカンパニーのバスが置いてある場所まで持っていく。本来は近くの浜でキャンプする予定だったが、時間も時間だったので今日は古仁屋漁港の駐車場で野宿ということになった。
大島海峡は依然として漕ぎにくく、途中、潜水艦が現れて「オオオー!!」と、大感動で写真に収めようと思ったが、海がそれどころではなく、やむなく諦めたほどだ。
みんなで銭湯に行き汗と潮を流す。サッパリしたところで食堂に行き、ハイオク(生ビール)を注入。何はともあれ、お疲れ様でしたということになった。ここの食堂は広島の人がやっているということだったが、実際には岡山の人だった。でも亭主は久しぶりの中尾さん達の広島弁に「いやー自分と出身の場所が近い人が来てくれると嬉しいねー」と言って上機嫌で、料理も安い割には量が多く、満足しすぎるほどだった。
その後、バスのある場所に戻ったがコーヒーが飲みたいと女の子たちに混ざってファミレス「ジョナサン」に行く。まさかこんな場所にまでファミレスがあるとは・・・瀬戸内町の人には悪いがやはり日本だなと思う。ついでにデジカメの充電もしてしまう・・・。 コーヒー5杯ほど飲んで店を出る。コンクリートの上にマットを敷き、蚊取り線香を張り巡らせてそのまま寝てしまった。
さようなら奄美大島
翌朝、体をボリボリかきながら朝日とともに目が覚める。
コンビニでパンとコーヒー、野菜ジュースを買い、昨日獲ったコブシメの刺身をバターで炒め、無理やり食べる。朝から消化に悪そうだ・・・。
みんなはキャンプ道具と個人備品を分けたりして、カヤックをバスの上に積んでいく。僕は自分の荷物をパッキングし、カヤックを分解、みんなのカヤックが積み終わった後、荷台に乗せてもらった。
女の子の一人であるAzさんが、飛行機で早く帰らないといけないので10時35分のバスで一足先に別れた。僕らは銭湯にまた入ってから名瀬に向かって出発する予定だったが、あいにく銭湯は閉まっていたので出発することに。
予想していたとおり、名瀬に行く途中、Azさんを乗せたバスを追い抜きそうになってしまった。
「これは・・・本人に悪いよな~」
そんな理由で気まずいので途中降り、アイスなど食べて時間をつぶす事にした。こんな事なら名瀬までおくっていけばよかったというわけ。
名瀬には昼頃到着。名瀬のダイエーに車を置かしてもらい、みんなはお土産をここで大量に買い込んでいた。僕は鮮魚売り場でお魚調査などして時間を潰す。
その後タクシーに乗って奄美名物、「鶏飯(けいはん)」を食べに行く。正直僕は知らなかったのだが「美味いからとにかく食ってみんしゃい!」と、言われるままについて行く。 ようは具をのせた御飯に鶏のスープをかけるだけのぶっかけ飯なのだがこれが美味い!おかわりしてしまった。 皆さんのお土産屋めぐりに付き合い、3時になった頃銭湯が開くので銭湯に行って風呂に入る。正直僕は風呂など入らなくてもフェリーの中のシャワーでいいと思っているので中尾さん達は風呂が好きだなーと思う。でも入ってみると気持ちいいので良しとする。
やることやり尽くし、暇になってしまった。
ターミナルに行って時間をつぶそうということでバスに乗り、港に向かったが、途中釣具屋があったので、ここで手銛の部品と、リールのラインを買いたかった僕は下ろしてもらうことにした。
「そうだ!釣りやろう!」
釣りに目覚めた中尾さんはやる気満々で、釣りで時間を潰せばいいんだとはり切ってルアーを物色し、店員に聞いて名瀬港のポイントなど聞いていた。何でも最近は港の中にでかいロウニンアジが2匹入ってくるのが目撃されているらしく、2~3㎏のカンパチも揚がっているというのだ。
「オオーッカンパチかー!!やるぞー!!」
中尾さんはやる気だ。それにしても港内にまでロウニンアジが入ってくるとはすごい。最近釣ったというロウニンアジの写真を見せてもらうと、やはりそれも名瀬港とある。んー、何だか俺までそわそわしてきたぞ。
ところが釣れない。
釣れるのは足元をフラフラと泳いでいるハリセンボンくらいである。ルアーを目の前でフラフラやっていると勝手に食いついてくるのである。アホだ。中尾さんも途中で飽きてハリセンボンを釣り、膨らませて遊んでいた。
堤防の先端で餌釣りをしている人達がメアジを釣っていた。餌なら釣れると気付いたころにはもう遅く、日は暮れてあと数時間で船が来るという感じになっていた。 乗船手続きをし、飯を食べてから車に乗り込みフェリーに乗り込んだ。
フェリーに乗ると奄美のカヤックマラソンに出て、僕らと同じようにツーリングをしてから帰る人達がけっこういた。中尾さん達の知り合いもけっこういて、2等室の場所に行くとみんなまとまっている。 僕はここで最後なので、ずぅーと持っていた三線を弾くという約束をしてしまっていた。
そんな話をしていたら「是非聞かせてくれ!」と、妙に観客が増えてしまった。
「ちょっといいですか?」
そう言って初老のおじさんもそれを聞きつけて「私も混ぜてもらっていいですか?」と言ってきた。もうなんでもありだ、みんなまとめてやってやるよ!と、半分ヤケクソ気味になりつつ場所を甲板に移し、僕のワンマンヘタクソ三線ショーが始まった。
久しぶりなのでけっこう指がもつれたり、唄が合わなくなったりしたが、そこはアドリブでごまかし、なんとか「ちんぬくじゅーしー」や定番の「安里屋ゆんた」「島唄」など数曲歌って幕を閉じた。
「イヤーいいもの聞かせてもらった!旅の出会いはこういうのがあるから素晴らしい!」
先ほどのおじさんは沖永良部の出身で、今は奄美大島に住んでいる。鹿児島本土である甲子園の予選の審判をしに今回は鹿児島に行くようで、「これは少ないけど・・・」といって金一封を僕によこすのだった。あまりのヘタクソな唄なので、本音でいらないと言ったのだが、旅のいい思い出になったと後に引かないのでもらう事にした。今でも三線ケースの中に入れたままだが。
「ワシも三線やろうかなー」
中尾さんも興味を引いたようだ。
僕は西表島で三線を覚えたのでほとんど八重山民謡しか知らない。遊び三味線だから独学だ。沖縄古典民謡とか、それこそ奄美大島の民謡などほとんどわからない。僕の場合、今回奄美に来てはじめて奄美の歌を聞き、その技術の高さに驚いた。
元ちとせさんがメジャーに出たとき、各旅行雑誌などで奄美大島の特集が組まれ、たくさんの島唄も紹介されたが僕にはほとんど同じものだと思っていたし、沖縄の物に比べればたいした事ないと思っていた。
それが現地に来てみれば高校生なども自分達の文化を大切にしようとし、それを内地の人間にも親しみやすいようにアレンジしようとしている人たちもいる。 なにより音が心地いい。
沖縄でも、内地でもない奄美の文化は、確かに面白い存在だと思う。
カヤックという物がものすごく地元にも認知された土地であり、沖縄とは違うまた別な文化がある奄美大島という土地に僕はまた興味を持ってしまった。
また来れるといいナと思いつつ、船は鹿児島へと向かって走るのだった。