第四章 屋久島縦走

鹿児島県 屋久島

2005年7月8日~14日


 

出逢いとは偶然にして希なり

 
 78日。奄美フェリーは820分に鹿児島新港に到着した。
 すでに車に乗っていた僕らは、着岸と同時に船から出ていた。中尾さんの気遣いで屋久島行きの船が出る港まで送ってくれるというのでありがたくお言葉に甘える。
 だが、実際のところ屋久島行きのフェリーには間に合わないと思っていた。フェリー到着が、だいたい830分、屋久島に行くフェリー「フェリー屋久島」が835分に出航するというのだ。 ムリムリ・・・!高速船に乗っていくか、一日鹿児島に滞在して翌日フェリーに乗ろうと考えていた。
 ところが中尾さん達に連れられて屋久島行きのフェリーが出るターミナルに行くと、船はまだ港に接岸していた。 もしかして・・・と思い、チケット売り場に行くとお姉さんが立っていたのでまだ間に合うかどうか聞いてみることにした。話し掛けようとしたら、 
「乗船するお客様ですか!!早く乗ってください!!」
 いきなり背中を押され、プッシュ、プッシュ!と、あわててフェリーに連絡し、「あと一人お客様います!!」と、連絡を入れてくれた。
 慌てたのは僕らもだ。もはや乗れないと思っていたから慌てて荷物を荷台から下ろし、車内に散らばった僕の荷物をまとめ、手伝いに来た船員に渡して行く。携帯がなくなり、てこずったが、ギリギリのところで見つかってダッシュでフェリーに飛び乗った。ウエイトを巻いてのダッシュはかなり足にキタ・・・!
 かなり唐突に訪れた別れだったが、携帯越しに別れの挨拶をし、中尾さん達と別れた。
 やれやれ。でもなんとか今日中にフェリーに乗れたので無駄な宿代を払わなくてすんでよかった。一呼吸入れてチケットを買い、荷物をまとめて階段の下に置いておく。
 すると、さっきからこっちを見ていた男の人が話しかけてきた。 
「すいません、もしかして奄美のレースに出ていた方ですか?」
 色黒で細身。眼鏡をかけて髪はボサボサ。正直、怪しい・・・。そう思った。
 だがその人との出会いが僕の屋久島での滞在を決定付けた。 
「は、ハイ・・・そうですけど」 
「あ、そうですか、僕も出てたんですよ」 
「え?あ、じゃぁ、シーカヤックなさるんですか??」
 その人は屋久島でシーカヤックを主に行う「South Island(旧・屋久島ネイチャーステーション)」のオーナー、つまりアウトフィッターで、今回はお客さんと共に奄美のレースに出て、奄美でツーリングして鹿児島に滞在し、その帰りなのだという。
 話しているうちに共通の知り合いなどもでてきて意気投合、今日はどこに泊るのかというので宮之浦のキャンプ場にでも泊って、頃合を見て屋久島一周に出ようと思っていると言うと、「天気も悪いし、しばらくうちにいればいいじゃないか」と、家に誘ってくれた。
 なんだか胡散臭い空気も感じはしたが、雨は嫌だし、正直屋久島の情報もほとんどなかった僕は彼の言葉に甘え、しばらくお邪魔させてもらうことにした。
 これが畠中さんとの出逢いである。
 
 フェリーは1230分に屋久島、宮之浦港に到着した。
 大量の荷物を持ってタラップを下りると、背後には標高1000mをこえる屋久島の山々が見渡せた。頂上が雲に覆われ、それがまた雄大なイメージを湧かせる。 
「ついにキタか、屋久島!」
 高校生の時に憧れた土地の一つに西表島があった。
 野生のジャングルと希少な生物の宝庫。そして海岸に生えるマングローブに興味を持った僕は大学生になってから、ほぼ毎年のように西表島に通い詰めた。休学までして一年間西表島の四季を感じるために働いていた事さえあった。
 そして西表島ともう一つ、僕には憧れる土地があった。
 それが屋久島である。
 講談社のブルーバックスを愛読していた僕は「湿原生態系」という本で西表島を知り、「屋久島」という本で屋久島を知った。その複雑な森林の生態系、様々な戦略で子孫を残す木々の生態を紹介した本は、僕に屋久島への夢をはせさせるには十分だった。今でこそ海ばかりに興味があるように思える僕だが、当時は何でもよかったのだ。
 ところが西表ばかりに行っていた僕は屋久島には縁がなく、行く機会はなかった。そんな中、バイト先で知り合った先輩や、旅先で知り合った奴に「屋久島は最高だ!お前も行くべきだ!」という話をいやというほど聞かされ、あげくの果てにはお土産と称して芋焼酎「三岳」をバイト先に持ってきて、仕事が終わる度に飲まされていた。おかげでこの焼酎が僕は好きになってしまったという訳である。味覚から占領されると人間はもろい。いずれ行かねばならない場所にインプットされてしまったのだ。
 随分とダラダラと僕の屋久島に対する思いを書いてしまったが、つまるところ自然が濃くて酒が美味いなら、それにこした土地はないじゃないか!という結論である。
 
 港は僕と同じような若者でごった返していた。沖縄のような派手さはないが西表のように地味でもない若者が多い。要は何の変哲もない普通の奴が多いのだ。面白い傾向だと思う。
 そんな人間観察をしているとカヤックを乗せたハイエースがフェリーから出てきて僕の目の前にとまった。 
「いやー、それにしてもすごい荷物だな」 
「よく言われます・・・」
 荷物を車に入れさせてもらい、出発。畠中さんの家がある安房(あんぼう)に向かう。 「腹減ったなー、何か食べようか。何食べたい?」
 僕はこういうとき、ラーメンと答えるようにしているのでラーメン屋に向かう。 畠中さんオススメの場所は閉まっていたので別の場所に。「萬来軒」でラーメンとライスを頼む。さっぱり味で白菜の千切りが入っていてこれが美味い。
 その後、トビウオ漁に興味があるというと、安房港に連れて行ってもらい知り合いの船を紹介してくれるが、あいにく船はドッグ入りで漁には出ていないようだった。
 屋久島といえばトビウオと首折サバだ。
 トビウオは主に初夏が最盛期だと言われるが、実際のところ、安房の漁師が一番気合いを入れて獲る時期は冬だという。夏のトビウオは数こそ揚がるが型が小さい(30㎝くらい)。ところが冬の物は50㎝をこえるという。この型だと値もよく、刺身にすると最高だそうだ。 安房港がトビウオ漁を主にしているとすると、首折サバは島の北にある一湊(いっそう)が主にやっていて、ここはサバ節を作る工場も集中している。一本釣りで釣られたサバ(正確にはゴマサバ)をその場で首を折り〆るのでこの名が付いている。「関サバ」並のブランド魚で有名である。
 安房の畠中さんの家は細い路地を入ったところにあり、海の目の前にあった。
 荷物を下ろし、洗濯物などいきなりやらしてもらい、「まぁゆっくりしなよ」とお茶が出されて、カヤックの話しなどして休んだ。
 目の前に海があるという立地条件に、何だか人の家なのにワクワクしてしまった僕は、どうしてもすぐに海に入りたくなってしまった。 
「なんもいないと思うけど、行ってきなよ」
 ウエットスーツに着替えてカメラを持ち、目の前の入江から海に入った。 思ったよりも濁りがきつく、潮も速い。南から北に向かって思いっきり流されるが、かまわずドリフトダイブで楽しむ事に。沖に出て行けば濁りは消えると思ったが、なかなか透明度は上がらず、それどころか流れが速くなるので沖に出るのはやめた。
 どうやらこの辺は見た目は磯でも海底は砂地のようで、それが濁りの原因らしい。 魚は確かに大した物はいなかったが、明らかに奄美諸島とは生物相が異なっていた。テングハギやタテジマキンチャクダイ、サザナミヤッコなどの熱帯魚は依然としているものの、メジナやサンノジ、タカッパなどもいて、ブダイもアオブダイ系もいるけど、普通のイガミも交じるようになっている。 
「ここは八丈島だ!」
 そう思いながらイシガキダイかイシダイを探したが、さすがにそいつらは見かけず、バカでかいサザナミヤッコに仰天し、コロダイの間抜けさにホッとし、陸に上がった。 
「ヘェー、けっこう魚いるんだなーここ」
 写真を見て畠中さんは地元すぎてここで潜った事がないので、意外に魚がいる事に驚いていた。 
「風呂入りたいだろ、温泉行こう!」
 そう言って再び車を出し、畠中さんは島の南にある尾間温泉につれて行ってくれた。尾間温泉は200円と安く、感じのいい温泉だった。熱い湯が気持ちいい。
 温泉から出ると雨が降り出していた。体が冷えないうちに帰り、夕食の準備。まだ初日だというのに随分とお世話になっているような気分だったが、まずは出会いに乾杯と2人で晩酌する。
 屋久島の焼酎「三岳」と、沖縄フリークの畠中さんは「久米仙」を呑んでいた。なんでも沖縄にある「テラワークス」の諸喜田さんのファンで、年に二回も沖縄に行っているらしい。同じ沖縄フリークでカヤックもやっているということで畠中さんとは話が合った。 「明日は安房川にでも遊びに行こう」
 そう言って初日はスターウォーズエピソード2などテレビを見て終わった。

何だかんだで居候、レーシングカヤックを知る

 
 翌日、午前中は畠中さんが庭の草刈をはじめたので一宿一飯の礼にと手伝う。何気にビーバーを使うのは好きなのでバッサバッさと草を刈っていく。  
「いやー助かったよー。一ヶ月もほったらかしたらこのざまだよ」
 畠中さんの家は草を刈るとだいぶ広く感じた。
 午後は安房川へ。
 なんでもお客さんにもらったパドルが嬉しくて試してみたかったからだという。本当は海で使いたかったが、あいにく今日は大荒れだ。昨日潜った場所はすごい波が打ち寄せて潜りでもエントリーできそうもないくらいであった。
 カヤックは畠中さんのナノック社のレジェンドを貸してもらった。奄美で中尾さん達に少し乗せてもらったこともあったので馴染み深い。
 桟橋から下ろし、上流に向かって行く。 川にはけっこうカヤックをやっている人がいて、ほとんどがツアーのお客さんだった。ちょっとカヤック漕いで中州でランチでも食べるツアーなのだろう。
 ここで畠中さんに筋肉質の紳士を紹介された。スピニカの中山さんで、元レーシングカヤックの国体選手にしてヨットマンでもある人らしい。川からの帰り、中山さん達がレーシングカヤックに乗っていたのでお邪魔して僕らも乗せてもらう事になった。  
「アカツカ君~、 10m も漕げたらたいした物だよ~」
 畠中さんがニヤニヤしてそういう。
 何を言うか、たかがカヤックだよ?ましてや俺だってけっこう長くカヤック乗っているのに乗れないわけないじゃないか。  そう思って軽い気持ちで順番が周ってきたカヤックに乗ってみる。  
「な、何だこりゃ・・・!!」
 冗談ではない、バランスがまるで取れないのだ。フラフラと左右に動く。  
「まだ放してないからね」  
「え、マジッすか!?」
 後で中山さんが支えているのにもかかわらず、すでに重心はプルプルしている。  
「ほら、放したよ」  
「え!いやっ!ありえネ!ありェない!!」
 プルプルしたバランスのままパドルを水面に突き刺すと、そのままバランスを崩し見事に沈した。  
「いや、あれだけ持てば最初にしてはたいしたもんだよ」
 あまりにも何もできないので悔しくてもう一回乗ってみる。  だけどやはり沈。パドルでブレイスし、バランスをとるのはできてもパドリングして前に進む事ができないのだ。何度か挑戦したが、ちっとも進まない。  そんな中、中山さんは普通のカヤックを乗るようにスイスイ進む。しかもレーシングだけあって速いのだ。一緒にいたお客さんも上手な物で、フラフラしつつもしっかり進んでいた。  
「な、これ知っちゃうとシーカヤックがよほどバランスがいいものかわかるだろ?」
 ちょっと感動と言うか、衝撃的な発見だ。カヤックの考え方が変わった気がする。というかむしろ、レーシングカヤックからシーカヤックに入った人に対し、ものすごい尊敬の念が生まれてきた。これは・・・すごいぞ!!
 畠中さんもレーシングを持っているので僕がこの島にいる間に何回か、また練習しようとの事だった。まるで自転車の練習をするような新鮮さがあり、新しい世界を知ったような感動がある。
 陸に上がり、家に戻ると昨日会った漁師の兄さんが来てトビウオを分けてくれた。本場のトビウオ、刺身にして食す事に。この晩は中山さんとさっきのお客さんもくるのでちょうど良かった。
  5 人で飲む。話がエコツアーの話になり、西表島の話しか知らない僕には屋久島の話はとても面白かった。
 基本的にはどこも同じような人間がいて、同じような考え方でやっている人がいて、対極にあるもの同士がぶつかっているのだな、というのは変わらぬことのようだ。この話の内容はここではふせる。書きすぎてしまうからだ。
 

 

 さらにその次の日は畠中さんに仕事が入り、僕も手伝う事になった。お客さんは女の人 2 人と少なく大丈夫そうだったが、僕自身、屋久島の海を漕ぐのは初めてだったので緊張した。  なんとかツアーは無事に終わり、お客さんを空港まで送迎すると一安心し、畠中さんの家に戻り、お疲れ様とビールを飲む。一仕事終わった後なのでなんとも美味い。だが、この一本のビールが効いてしまい、その後しばらく 2 人とも体がだるくて動けなくなってしまった。云う事をきかない体に鞭打って、「気持ち悪・・・!」とか言いながら二人で片付けをする。
 翌日は大人数のツアーが入っていたので、またもや手伝うことになっていた。
 舟が足りないので「スピニカ」に借りに行くと沖縄のF君とは違う、もう一人の友人Fから電話がある。僕が来る前から屋久島に入っていたのだが、一時的に高知の方に行っており、再び戻ってきたのだ。安房川にいるというので呼んでみると、すぐにホンダのカブでやってきた。
 
 彼とは随分と因果な出会い方をしている。 最初に出会ったのは 1999 年の 3 月、西表島の南風見田浜である。ここでキャンプをしている時に偶然 1 日だけ会って酒を飲んでいた。
 何だか話が合う奴で、面白い奴だとは思っていたが連絡先も聞かないままその時は別れてしまった。旅で出会う、一期一会の対象の一人でしかその時はなかった。
 ところが彼と再会することになったのがその約 6 年後、 2004 年の 11 月、西表島からはずいぶんとはなれた錦糸町、それも居酒屋での出来事だ。
 僕のサイトにもリンクしている「 MOGLUERS DILIGHT」 と、「 PURE   company」 主催の魚突き大会の打ち上げで、参加はしていないが挨拶に顔を出した僕は、偶然にもその大会に出ていた F とばったり顔を合わせる事になったのだ。なんともまぁ、ずいぶんとマニアックな趣味をお互い持ち、 6 年の歳月を得て出会ってしまう物だと驚いた。
 その後も共通の知り合いを会してバッタリ会ったりと、なんだか気持ち悪いくらい顔をあわせる事があり、今にいたっている。
 彼はフリーライターで、この時はチョコチョコと仕事をしつつカブで鹿児島まで走り、屋久島に遊びにきているのだった。後日また会おうという事でこの時はすぐに別れた。
 
フリーランスライターのF

 その日はお礼にと寿司を奢ってもらった。現金支給はできないから、この位ならたやすいもんだと畠中さんは言うが、久しぶりの寿司に遠慮もせずにズカズカとキビナゴの刺し身やら首折サバやらを頼み、うまいうまいとほおばった。
 ここの店の親分は東京でもともと寿司屋をやっていたらしく、店の中には130㎝のカンパチやら、30㎏のモロコやらの魚拓があり、屋久島近海で釣ったものかと思ったら「銭州」とか「新島沖」とか書いてあるのである。
 自分で獲った魚で寿司屋をやっていたらしく、なかなか面白い話も聞けてよかった。
 その日の晩、明日のお客さんから連絡があるはずなのが、こっちから電話をしてもなかなか出てくれなく、シビレをきかせた畠中さんはお客さんのいる宿まで出かけていった。 「スターウォーズ・帝国の逆襲」など見ながら帰ってくるのを待っていると、ブスッとした感じで畠中さんが帰ってきた。 
「明日はレーシングの練習でもしよう。中山さんがレーシングのカナディアンも用意してくれるらしいし」
 なんでもお客さんはキャンセルしたつもりだったようなのだ。 
「電話をしなかったんだから、キャンセルでしょう?だとよ!」
 カヤックのツアーというのはだいたいデイツアーで10000円前後が全国の相場である。屋久島はそれよりやや高いのだが、どこも大体一緒に統一されている。これをカヤック初めての人はたいがい高いと思うだろう。
 しかし、ガイドの人件費や拘束時間、カヤックのメンテナンスや荷物の積載、昼食の手配など、ツアー以外でも多くの仕事があり、その労働に費やされる力はかなりの物がある。それでいて保険代や各種業界内でのマージンや雑費がかかる割には形に残る仕事でもないので「カヤックガイドなんて必要あるの?こんなに高い値段で?」なんていう声まで聞こえてくる始末。まったくそんな仕事だ。
 そんな労力を使っているから、一回のツアーでは限定した人数しかこなせないので同じ日に予定がかぶってしまうと他のお客さんを断らなければならなくなってくる。そんな状態で、いきなりドタキャンなどされれば、キャンセル料も貰いたいのは当然なのである。天候不順なら自然相手の仕事だけに仕方ないが、せめて電話の一本入れてくれれば他のお客を入れられるかもしれないのだ。
 西表島でガイドをやっていた時、このようなドタキャンはそう滅多になかった。だが、畠中さんに聞くと屋久島ではそういう客はけっこういるらしいのだ。 西表島はそう簡単にはいけないし、パック旅行で行って、自由にアウトフィッターを選ぶようなスタイルの旅行者は少ない。たいがい個人旅行者だ。だから本当にその島に来たくて来ている人が多いため、そんな無礼な奴は少ないのだと思う。 だが、屋久島は大量に観光客をパック旅行で引き寄せ、観光協会に所属するアウトフィッターに分配するように紹介し、ツアーを行っているためこの様な客とも出くわすのではないかと思う。また、ここの島に来る客は「山」がメインだからカヤックをどうでもいいと思って、ついでにやっていこうと思っている人も多いからだろう。 このへんは僕の勝手な憶測だから真意のほどはわからないが、業者にツアーを頼んでいる以上、礼儀としてキャンセルするなら一声かけるというのは当然の事である。多くの人を島に入れなければいけない観光業、そして少数制でじっくりと屋久島の自然を見てもらおうとする流行のエコツアー・・・。本当に屋久島を知りたいと思って来ているのか、暇つぶしの為に来ているだけなのか、日本百名山ハイカーのようなコレクション的な旅行をしているだけの輩なのか。 僕はこの因果関係に興味を持たずにはいられない。
 この出来事で、屋久島の観光業の詳細が詳しく知りたくなってきてしまった。
 まぁ、またその話はあとで。書ききれないからです(ここも)。
 翌日、急遽暇になってしまった畠中さんと僕は午前中、再び安房川に行きレーシング艇の練習をする。中山さんたちも来ており、中山さんは本来の自分の種目であるカナディアンを持ってきていた。レーシング艇は屋久島に来る以前にも見た事があったが、競技カヌーにカナディアンもあるとは知らなかった。
 また、それがすごいのだ!まずカヌーだけ浮かべてもまっすぐ浮かばない。つまり自立しないので人が乗ってバランスを取らなければならないのである。それに片ヒザ立ちで乗り込み、シングルパドルで漕いで行くのである。 
「これに比べれば、カヤックは楽な物ですよ」
 中山さんは極めて冷静に、ていねいな言葉づかいで笑いながらそう言った。
 と、とりあえず物は挑戦とレーシングカナディアンに乗ってみる。シングルパドルでスカーリングしながら片一方に体重をかけないように恐る恐るバランスをとっているとなんとか水面に浮かんでいることができた。 
「おっすごいぞ!その調子だ!」
 桟橋から離れたところで進もうと思い、パドルに力を入れるとその瞬間、一気にバランスを崩し、左右に体を振って「オッオッ!!」とかやっていると、案の定ザパーンとひっくり返った。
 畠中さんもやってみるがやはり沈。スピニカのお客さんは川の対岸あたりまで漕ぐ事ができ、曲がる段階で沈してしまっていた。 
「これを乗り物にした人はすげーよ…」
 そう一人ごちていると、中山さんは畠中さんのレーシングカヤックに片ヒザを立てて漕ぎ出した。あげくの果てにはカナディアンの前にお客さんの嫁さんを乗せてタンデム漕ぎ!もう脱帽である・・・。
 シーカヤックは波のある海上での安定感をつくる為にできるだけ浅く広く漕ぐ。だけどリバーやレーシングの選手はパドルを立てに入れて漕ぐ。その理由がちょっとわかった気がする。体がシーカヤックの漕ぎ方をしている以上はレーシングはムリそうだ。 だけど一度レーシングのパドリングをマスターして海にでたらどうなるか…。ひょっとしたらそれが近代シーカヤッキングの最強進化形なのかもしれない。
 安房川の水に戯れているとFがやってきた。いい機会だからとシロート代表として漕がしてみることにした。 
「何言ってるんですカー、これでも僕はラフトのガイドだった時もあるんですよ!」
 そんなの関係あるか、ゴタクはいいから早く乗れと言うと、3パドル目にして見事に沈。畠中さん大喜び!でも三回も漕げただけすごい。
 しばらく色々と乗ったあと、体も冷えてきたので帰ることとなった。
 午後はFと畠中さんと一緒に海に潜りに行く事となった。2人でおかず獲ってもしょうがないので彼が銛、僕が水中カメラで行くことにして彼の専属カメラマンになるということになった。 
「なんか絵になるデカイ奴、突いてくれよ~」 
「まっかせてくださ~い!」
 彼は僕が屋久島に来る前にメアジの大群に囲まれ、その群の下にいた10㎏近いイソマグロを突き損ねたといっていただけに気合いが入っていた。 ところが海はどこも時化ていて、潮も引いているのでタイドプールや入江の中なども魚がまったく入っていない状態だ。色々周ったが、結局Fのお勧めの場所まで行き、そこで潜る。畠中さんは海が余りよくないので潜るのはやめるといい、買い物にいってしまった。 でも以外に透明度はよく、水深もある場所でFはギンガメアジとタイワンカマスを突いていた。どれもいっぱい群れていてけっこう近くまで寄るが細いので当てるのは大変だ。
 2時間ほどで上がり、畠中さんと共に帰る。
 その日はFの突いた魚の刺身とソーミンチャンプルーを作って食べた。
 

天気が悪いので山にでも行く事に

 
  7 12 日。早朝5時半に起きる。なんでこんな早起きをしたかと言うと、今日から屋久島縦走に出かけるからである。
 どうも屋久島に来てから天気が悪く、雨は降らなくても風が断続的に強くてカヤックを出すには不安要素が多い日が続いていた。 
「予報ではあと4~5日はこんな天気が続くみたいだから山にでも行きます」
 いつまでも畠中さんの家にごろごろ何をするでもなく居るのも嫌なので海の状況が回復するまでせっかく屋久島に来たのだから山に行こうと思ったのである。もともと今回の旅行も屋久島の山を登る為に用意した装備も多かった。最初は荷物を削減する為に靴もはかずサンダルだけで移動するつもりだったのである。本来はトレッキングシューズが欲しいところだが、カヤックにしまうにはかさばるのでトレイルラン用のシューズを履いていった。
 バックパックがでか過ぎるので畠中さんの60リットルのバックを借り、さらにMSRではなく、ジッポのガスストーブを借りていくことにした。これでいくぶん軽量化がはかれる。ガスはあまり好きではなかったが、ガソリン1リットル、1キロ分軽くなるだけでもありがたい。食料は3日分用意し、行動食も十分持った。水はいくらでも湧いているので大丈夫だそうだ。

 6時30分、畠中さんに車で淀川登山道までつれて来てもらい、そこから出発した。
 道はけっこう整備されており歩きやすい。何人か同じような時間に出発した登山客を追い抜き、まずはすぐそばにある淀川小屋で朝食をとる。畠中さんが弁当を作ってくれ、何だか人に作ってもらった弁当を食べるのは久しぶりだな~と、やや感動気味に食べる。小屋に泊まっていた男の人がコーヒーを煎れていて、匂いに誘われて話し掛けたら一杯もらえた。ん~美味いねぇ・・・。屋久島自然水で煎れたコーヒーは美味かった。
 感謝して小屋を出発。
 そこから先は単純な山道をひたすら歩いていく。ガスが出てきて、雨もパラパラと降ってきた。最初はそのまま歩いていたが濡れるのが嫌なので下半身も雨具をはき、歩いていく。
 山上湿地、花之江川を通過。
 通常なら見晴らしがよくなり、湿地帯が見渡せるのだがガスで何も見えない。ガスが晴れる一瞬を狙って写真を撮るがムリそうなので先を急ぐ事に。
 そこからは山の峰に沿って歩いて宮之浦岳まで行くのだが、途中で荷物を降ろし、道をはずれて黒味岳を目指す。この山は晴れれば屋久島の奥岳、島の中央部に集まった標高1800m以上の山々が全て見渡す事ができる場所だとあり、一応登ってみることにしたのだが、急な花崗岩を這い登って行くと、案の定、ガスで何も見えない・・・。しかもすごい風で吹っ飛ばされそうだ。僕以外にも人が一人いたが、すぐに下がっていってしまった。風にあたっているとどんどん濡れてくる。僕も一分も居ないうちに下山した。
 そこからもとの登山道に戻り再び重い荷物を持って山道を歩いていく事に。
 最初の段階では、ウッドデッキが作られていたりして非常に歩きやすかったが、森林限界を超えたあたりから笹の間をえぐったような道をひたすら歩いていく。段差が大きく、背中の荷物を転がすように這い上がり登って行く。登山の経験があまりない僕はこの段階でかなりへばっていた。 周りはガスで視界が著しく悪く、頂上が見えないので「まだか、まだか?」と見える山を登りつめる度に思う。しかも風が恐ろしく強く、途中にある投石平ではガイドがお客さんを連れており、心配なので引き返すと言っていたほどだ。
 12時10分、なんとか屋久島、南九州最高峰の宮之浦岳(1936m)を登りきる。
 記念写真を撮るがレンズがすぐに水滴で曇る。あまりの爆風にとてもじゃないが荷物を持って岩の先端までは登れず、両手をついて這いつくばって登頂する。ガイドブックにあるような爽やかな登頂風景とは雲泥の差だ!!
 20分ほど休んで30分に出発する。風が強すぎてそれから逃げるように山を駆け下りた。
 しかし、屋久島の奥岳付近の景色はなかなかよかった。
 笹の草原の中から花崗岩がボコボコと現れ、ハイマツやシャクナゲの低木、白骨樹のある景色が霧の晴れるその瞬間だけ眺め回せるのは、晴れ間が広がるよりも逆に幻想的な雰囲気を醸し出しており、たいした演出効果を出していたと思う。

 

 
宮之浦岳(1936m)登頂!何も見えん…
 いいかげん疲れてきた足を引きずり、再び森林の中に入ってきた頃、今日の宿泊予定である新高塚小屋が見えてきた。
 思いのほかきれいな山小屋で入口に雨具を干し、自分の寝るスペースをつくるとウトウトと寝てしまった。
 5時頃目が覚め、周りを見渡すと意外なほど多くの人がやってきており、荷物をまとめたり酒を飲んだりしている。僕も起きて外の雨具を干している場所でお湯を沸かし夕飯を作る。米を炊き、レトルトのカレーを暖めて、そのお湯でラーメンを作る。つくるのには時間がかかったが食べるのはあっという間だった。やることがなく足をマッサージしたのち、また寝袋に入った。
 それにしても今回借りたガスストーブの性能には驚いた。メモ帳ほどの大きさに収納できる本体と、コッヘルの中に入れておくことができるガスカートリッジ。極めてコンパクトであるのにプレヒートは必要なく火力も強い。石油ストーブにこだわりを持っているのがアホらしく思えるほど便利だ・・・。みんながガスを使う理由を改めて実感した。
 
 翌朝5時起床。早く出ないと縄文杉が人だらけになってしまうと聞いていたので一番乗りを狙う。だが僕よりも先に団体が出発してしまっていた。
 ラーメンを作ってコーヒーを沸かし朝食とする。
 少し遅れたが6時頃出発する。
 昨日までの雨はすっかりやみ、深い森の中に強い太陽光線が入り込み、木漏れ日が苔についた水滴に反射してきれいだ。
 7時過ぎくらいに縄文杉につけばいいと思っていたが、これが予想に反してあっという間に着いてしまった。
 屋久島の顔、縄文杉。昭和41年に発見され南日本新聞によって全国に紹介されてからは日本、いや世界で一番長生きな生物として紹介され、屋久島が世界遺産に登録される理由の一つにもなった巨木だ。 樹齢7200年という説もあるが、2170年という放射性炭素同位体を用いた年代測定法で得られた説が有力らしい。
 だがそんなことはどうでもいいのだ。とにかくでかい木があるということで多くの人がこの縄文杉を見るために屋久島を訪れ、山に入る。 縄文杉の周りにはウッドデッキが敷かれ、昔、写真撮影のために切り払われた周りの木々を再生させようと今は苗が植えられている。だがその整備された土壌とデッキのうえで、かわるがわる記念写真を撮っている女の子達を見ると、なぜか「すごい!」というものよりも「作り物なんじゃないか?」という、いつもの天の邪鬼的な考え方が浮かんできた。
 縄文杉自体は確かに大きく、雄大な木だ。ちょっと遠めだがそれでも尋常じゃない大きさだということはわかる。だが、想像していたような神聖さが感じられないのだ。
 どっかで似た感じを受けたと思う。なんだったかな~と記憶を巡ると、それはカナダでの事だ。UBC人類博物館で見たハイダの彫刻だ。本来のトーテムポールよりも、現代のハイダの血を受けた彫刻家が作った作品の方がスピリチュアルな物を感じたのである。 僕は観光地と化したでかい縄文杉や標札のかかった名のある杉よりも、登山道にたまにある名もない巨大な杉、朽ちた巨大な倒木や土埋木の方が神聖な感じを受けていたのだ。
 昔、屋久島の人は「岳参り」といって春と秋に奥岳に登り、豊漁、豊作、家内安全を祈り、山の神を祭ったという。山伏もこの巨木が生い茂る山に登り修行をした。屋久杉には精霊が宿るといわれ、切る事が許されていなかった。
 初めて屋久島の屋久杉が伐採されたのは豊臣秀吉が切らせたのが最初のようで、しばらく伐採は続いたが今はご存知のように屋久杉の伐採は禁止されている。それは自然保護という名目であって自然が恐怖であるからとか、そういう霊的な理由ではないのはご存知のとおりだ。 まぁ、そんな神霊を今の時代に持ち込むのは間違いだとはしても、今そこにある縄文杉は霊的なものが抜けた、抜け殻のような印象を僕は受けてしまったのである。
 観光地になったおかげでこの僕でさえ見に来る事ができたのは確かな事だが、デッキまでつくり、写真撮影用のスペースまで用意して、多くの人間をここまで連れてくる必要があるのかどうかといわれれば、素直に僕は疑問なのである。
 多くの人間にすばらしい物を見せたいという気持ちもわかる。だが金を払えば誰でも何人でも見ることができるという今の自然を売り物にしている観光地のあり方はどうかと思う。その辺の事をエコツアーをやっている人はどう思っているのか僕は知りたい。
 
 話がだいぶ大きくなってしまった。
 そんな事を思いつつも、先行者のツアー客がいなくなると僕も写真をさっさと撮り、前方のツアー客を追い抜いていった。
 そこからは先は随分と長い下りが続いた。ウッドデッキで階段が作られてはいるものの、かなり急な下りが直線で続いており、行き交う人は登りなのでヒィーヒィー言っている。あるお姉さんは「あ、あとどのくらい登りますかねぇ~」と、息も絶え絶えに僕に質問してきた。とてもまだまだありますよ・・・とは言えない雰囲気だ。
 その長い下りを終えると広間があり、多くの人が休んでいた。 そこがウィルソン株である。先ほども出てきた太閤、豊臣秀吉が京都の方広寺建設の為に切り出したといわれる屋久杉の切り株で、今発見されている物の中では一番でかい。中が空洞になっていて泉が湧いている。
 そこからは道もだいぶ楽になり、スタスタと歩いていくと登山道が切れ、トロッコ道が現れた。ここからしばらく上り下りはない。ちょっと気が楽になり荷物を下ろし、少し速いが行動食を食べ、グレープフルーツをかじった。 通常、縄文杉への登山はこのトロッコ道の入口である荒川登山道から入り、たいがい日帰りで帰ってくる。その為トロッコ道から登山口に入るこの場所には、ものすごく大勢の登山客が控えていた。その登山客とはまったく逆の道を歩いて行くことになる。
 10時30分、トロッコ道をひたすら歩いていく。山の等高線に沿って渓谷をなぞるように走るトロッコ道は、今でも何本かトロッコが走っているようだ。 天気もよく、僕はスタンドバイミーなど口ずさみ、かなり上機嫌で道を歩いていく。道にはヤクジカなども時々出てきてなかなか楽しかった。

 

 

 ところが面白いのは最初のうちだけだ。20分も歩くと同じような景色ばかり続くので飽きてきた。しかもあまりにも長いのでまっすぐでいいのか不安になってきた。白谷雲水峡に抜けるには途中で道からはずれなければならないからだ。でも有名なコースだから迷う事はないだろうと構わず歩き続けると、だいぶしてからやっと分岐点が現れた。やれやれ。
 その手前にさっきから右手に流れている安房川の上流に降りられる道があったので荷物を置き、川に下りてみる。
 これぞ屋久島の川!という景色が広がった。花崗岩の間を流れる清流。深い渓谷にヤマツツジが赤い花を咲かせており、ヤクジカが枝の葉を食んでいる。川面を除くとヤマメがちょうど落ちた虫を食べに上がって来たところだった。
 暑かった事もあるが、たまらずパンツ一丁になって川に飛び込んだ。 
「ウォッ!」と、奇声を上げるほど冷たかったが、まっこと気持ちがいい!!マスクを持ってこなかったことを真剣に悔やんだ。淵に潜ってヤマメが見たかった。ちなみに屋久島のヤマメは在来個体ではなく多摩川産である。
 花崗岩の大きな丸い岩の上で甲羅干しをしているとあまりの気持ちよさに「あぁ~ここで一泊しテェ~」と思わずにはいられなかった。しかしそれはできないようなので服が乾いた13時に分岐点に戻り、白谷雲水峡へと続く辻峠をイッキに登っていった。

 

 あまりにも勢いよく登りすぎたので峠の上にある太鼓岩への入口を見逃してしまい、そのまま素通りしてしまった。あーこの天気だったらさぞかし良い眺めだった事だろうに!屋久島滞在で唯一の後悔である。気付いたのはそれからしばらく歩き、白谷雲水峡の辻峠側から見て入口にあたる白谷山荘に着いてからである。もはや戻る気力はなかった。
 白谷山荘には本当は今夜泊る予定でいたのだが、新高塚小屋と違ってトイレが同じ建物の中にあるので臭いのだ。しかもデジカメのバッテリーも無くなりかけており、明日まで持つか、わからない。距離を見るとあとわずかなので、もうイッキに行ってしまおうと思ったのだ。日程的にもそれほど余裕があるわけではなかった。
 白谷雲水峡は楠川歩道と原生林歩道の2本の道があるのだが、距離は長いが見るものがいっぱいある原生林コースをチョイス。もう最後だし、そんなに急勾配はないだろうと舐めてかかったら、けっこうきつかった・・・。
 ここの森だけを見にエコツアーのガイドがお客さんを連れて歩いているのを何度か見た。意外にも僕のような個人で歩いている人は少なく、7割近い人達が何らかのツアーに参加し、ガイドをつけていた。
 そんなもんなのですねー。
 白谷雲水峡は宮崎駿さんの「もののけ姫」の舞台設定に使われた森ということで、あのような苔むした原生林を見ることができるとあり、人気があるようだ。確かに苔マニアにはたまらない物がある。とくに沢にはえた苔は壮観だ。沢にある岩前面に苔がビッシリはえているのだが、これは長い間その沢が荒れていないという証拠で、それは森の保水力の安定感を示している。倒木から生える新しい木や切り株の上からまた生える二代杉や三代杉など、森の生い立ちを見るようで面白い。

 
 

 

 
 体力的にはもうかなりキテいたが、どうも注意を引く物が多く、その度にバッテリーの少なくなったカメラを恐る恐るまわすのである。
 飛流おとしの前のベンチで休憩し、お茶を飲む。もう足がかなり疲れていたが、頑張って最後に弥生杉を見に行く。
 弥生杉を見て道を降りていくと車道が見えた。ついに白谷広場に出ることができた。とりあえずゴールだ。縦走完了である。
 出発当初はここから楠川歩道を歩いて県道まで行き、楠川温泉に入っていこうと思っていたがそんな余裕はもうない。 バスで帰ろうと思ったが、アホな事に出発する際、畠中さんの車に財布を置いてきてしまっていたのだ!携帯電話が通じるところまで行き、畠中さんに電話するとタイミングが悪い事に今、ツアー中だという。ヒッチハイクで下まで降りて来い…というので駐車場に行き、今から下に降りそうな人を探す。運がいい事に弥生杉で会った女の子2人組に会い、なんとか宮之浦まで乗せてくれることになった。
 2人は永田の宿だというので宮之浦の港で下ろしてもらい、別れを告げた。
 よく頑張った自分に対し、ビールでも飲もうかと思ったが、財布がないからヒッチハイクした事を忘れており、再び自分の愚かさに嘆くのである・・・。
 
 その後、ツアーを終わらせた畠中さんがやってきて、僕をピックアップしてくれた。山にもビールを持っていっていなかった僕にはその日のビールは最高に美味かったそうな。
 この2日後、今度はカヤックに乗って屋久島一周の旅に出るのだが、それは後編で!