第一章 雨にも負ける、風にも負ける、雨天酒盛り宴は続く
沖縄県 西表島
2005年6月10日~21日
プロローグ
「日本縦断しちまえばいいじゃん」
会ったばかりの雑誌編集者は僕に当たり前のようにそう言いはなった。
2004年の暮れ、僕は前から考えていた沖縄本島一周をやる計画をたてはじめていた。アラスカに行ったり、伊豆や三浦ばかり言っていた僕は、どうしても沖縄の海が恋しくなってしまい、八重山しか知らない僕には沖縄本島は実際よくわからない沖縄の島だったので行ってみたかったのだ。沖縄ばかり行っているくせに・・・。
同時に、僕は屋久島にも惹かれていた。水と森の島、屋久島は昔から西表島と同じくらい興味があった島で、身の周りにも屋久島フリークがいっぱい取り巻いて「いいよ~、いいよ~」と言うものだから、そこにもカヤックで行ってやろうと企んだのである。何より僕は屋久島の芋焼酎、「三岳」が大好きなのだ。
奄美大島のシーカヤックマラソンにも興味があった。
レースなどというものは興味がなく、カヤックはやはり旅をするものだよ・・・という考えもあるが、やはり勝ち負けを競う勝負事が楽しく感じてしまうアドレナリン大好き若造の僕には旅だけホゲェーっと、できるほどの悟りは開かれていないのである。後夜祭のお祭りに参加するのも楽しみ、カヤッカーの友人を増やすのも楽しみ、そして奄美をツーリングするのも楽しみだった。
そんなだから、今年は南西諸島を島ずたいにカヤック持って旅をして行こうと思ったのである。
ところがである・・・。どうしても夏のうちに行っておきたいもうひとつの場所があった。
それがよりによって北海道、知床半島で行われる新谷暁生さんの「知床EXPEDITION」で、これにどうせ行くならカラフトマスの遡上の時期に合わせようと思うと、どうしても沖縄行きと知床が時期的に被ってしまうのである。
その旅程を悩んでいた時、偶然にも某出版社の編集者とフリーランスライターの集まりに混ざりこむ機会が出来た。そこで来年の旅の計画を話すと、そこにいた雑誌編集者が何のためらいもなく「どっち(北も南)も行けばいいだろ」というのである。
んなこといったって、日本の端から端を結ぶ旅なんて大それた事はできない!・・・と思っていた。そんな予算は作れないと。
だがその一言を聴いた時、僕の中で「なにをチマチマしたことで悩んでいるんだ、金なら今から稼げばすむことだろう」という考えも浮かんできた。案の定、計算してみたら思ったより簡単にできることがわかった。
もうやるしかない。乗りかかった船だ。
こうして僕は今回の旅を計画した。
■あぁ懐かしの西表島は100年に一度の大雨だった
6月10日。朝の飛行機に乗った僕は沖縄那覇空港経由で石垣島にたどり着いた。
飛行機から出ると、滑走路に出る前からネットリとした亜熱帯気候の空気が身を包んだ。懐かしい不快感。この暑さがたまらない。
空は生憎の曇り空。それどころかバスで離島桟橋の前にあるターミナルに着くと同時にスコールが降り出した。トタンの屋根を激しくたたき、雨の飛沫が屋根の下にいても体を湿らす。
嫌だったが船の時間がギリギリだったので雨具を着て桟橋に向かった。ツイテナイ事に雨は桟橋到着後にすぐにやむ。濡れ損。
まァこんなもんだ。時間はなかったが仲村釣具店で魚突きのフロート用ロープを買い、西表島大原行きの高速船に飛び乗った。
安栄観光のケタタマしいエンジン音の高速船に乗ると僕は故郷に帰ったように安心する。心地よい体への振動。昔、西表島にハマっていた僕にはいつも期待に胸膨らませる振動であり、ぱぴよん時代には生活に馴染んだ振動だった。ただただ懐かしい。
ゆらりゆらりとまどろんでいると、船はいつのまにか大原に着いた。迎えはいつものごとくいない。歩いて馴染みの民宿まで行くのがお決まりだ。
「民宿やまねこ」にたどり着き、宿のおばさんに挨拶。とりあえず荷物を置いて歩いて豊原にある「南風見ぱぴよん」に早速向かった。豊原まではかなり時間がかかるのだが、暑い気候に慣れるためにも、体力がこの気候に追いつく為にも歩く事にした。
ぱぴよんに着くと汗だくになっており、そんなヒィーヒィーしている顔で久しぶりにオーナーの嫁さんに会う。
「うぉお!!懐かしい人がおる!!」
嫁さんはそう言って驚きながらも自慢のランの手入れを休めずに店の中を歩き回っている。電話番のネネさんと新しいガイドの小堀さん、そして隣のホテルで働くために来たというネェさんもいた。山元さんは近くの山に行っているというので小堀さんとネェさんとそこに行く。
久しぶりに会った山元さんはボーズ頭で足を怪我していたが、いたっていつも通りだった。前からもっていた山を色々いじっているようだ。しばらく久しぶりに会ったという事で話をしていたら、独立した余語さんもお客さんを連れて遊びにきて、立ち話を1時間ほどしたのち、僕は小堀さんに大原まで送ってもらい宿に戻った。
宿には男が3人、女の子が一人いて、4人で酒を飲みながら話す。30代の男の人2人が女の子に対して「男ってのはさー、女に対して・・・」とか「俺の恋愛感はさー・・・」「俺は一途だヨ」「愛のために死ねるか!?」などと話をタラタラとし、女の子は「そーなんですかー」「えーっ!?男の人ってそうなんだー」とかやっている。初対面の年下の女の子にそーいう恋愛話をフルのは30歳の男としてどうかなー・・・と思うのは俺だけか??
とにかく面白いので横でニヤニヤしながら聞いていた。
翌日、まだカヤックが届いていないのでやることがなく、午前中は昨夜男の人2人に恋愛話を振られていた女の子とユンタクし、その子が西部に移動してからは自転車を借りて潜りに行った。
ちょうど大潮が終わった頃だからか、リーフの中には大量のスクが泳いでいた。
スクというのはアイゴの稚魚である。沖合いで産卵し孵化後しばらく浮遊生活をしていた稚魚は6月のこの時期になると群となって一気にリーフの中に入ってくるのである。そしてそこで初めて海藻を食べだすのだ。
そのため昔から沖縄の人はこのスクがリーフの中に入る時にスクを獲り、食べることが慣習として今も残っている。リーフの中に入って餌を食べる前の胃の中が空のものでないとダメらしい。リーフの中にあるアマモ場を大群で泳ぐスクはなかなかの見ものだった。
しかしこの日は海が荒れていて本命のリーフの外には出られそうにもない。しかたなく自分の身長と同じくらいの水深しかないリーフの中でなんとかイシミーバイとヒメアイゴ、オニダルマオコゼを突いて今日のおかずとした。
この晩から西表島は大雨が降り続いた。
そんな雨の中、僕は自転車をこぎ、大原のとなり、仲間川を越えた大富部落に向かった。
本郷さんの奥さんに会う為である。
この旅で西表に来たのは、今年の3月に起きた遭難事故の話を地元の人に聞くためである。その後どうなったかも。
正直、直接奥さんに会っても何を話していいものかためらった。だが共通の知り合い「民宿やまねこ」のオーナー、徳元さんも「挨拶くらいしてこい」というので自宅を訪ねることにしたのだ。
もう言葉もしゃべれるようになった息子がひたすら部屋を駆けずり回る中、僕と奥さんはあの遭難の事を話した。それはなんだかとにかく感情を締め殺したような、なんだかやるせない会話だった。
内地から色々な本郷さんの知人が連絡をよこしたり、実際に来て挨拶をしていく人達もいたみたいだが、奥さんは本郷さんが西表島に来てから知り合った間柄なので、それ以外の関係での人とはほとんど面識がなかった。だから全国各地から激励やお便りをもらっても、困ってしまうともらした。
僕は本郷さんの奥さんとも結婚前から知っているのでそれはよく理解できた。何しろ本郷さんは自分の事をあまり人に話す人ではなかったからだ。
ただ、いっしょに遭難したお客さんの家族のこともあるので、しばらくは西表島で本郷さんが帰るのを待ってると言った。それがなんだが、僕には理解したくても理解できないような、とにかく当の本人や親族にしかわからない覚悟なのだろうと思う。
宿に戻り、熱いシャワーを浴びてビールを飲んだ。アイゴの刺身とオコゼの汁が旨い。
次の日は雨。それもかなりの大雨。傘をささずに外に出たら一瞬のうちにズブ濡れになるほどだ。一日停滞し、宿にいた怪しい研究者とその研究室の学生とカエルの話をして酒飲んでいる。
その次の日も雨。もう嫌になる。カヤックはとっくに届いているのだが、この雨ではとてもじゃないが組み立てて漕ぐ気にはなれん。だが、いつまでも民宿に泊まっているわけにもいかないので晴れ間が見えた午後、西部の船浦に移ることにした。
移動前の昼飯時、スーパーに行くついでに「海歩人」を寄ると、ちょうどオーナーの中川さんがいた。挨拶してちょっと話をするつもりが、かなり長話をしてしまった。
話の内容は遭難事故のことでもあるが、それよりもこれからの西表島でのカヤックが、仕事としてやりにくくなった話のほうが痛烈だった。
西表島は西側半分に道路がなく、絶壁の場所が続き、深い入江になっているため集落もない。南は南風見田浜、北は白浜、もしくは船でいける部落、船浮までしか人は住んでなく、そこから先は無人なのだ(網取は集落と言えないので省く)。この無人地帯があるというのが西表をシーカヤックのフィールドとして価値を高めているわけで、大自然の島といわれるイリオモテを一番堪能できる場所、シーカヤックの存在意義を感じるフィールドにしているのである。ところがここが漕げなくなるというのだ!!
実際は漕げるのだが、商業的なカヤックツアーで行く場合、連絡が取れる手段をもつ(無線、広範囲対応携帯電話など)か、伴走船を付けなければならないというのだ。
それで今まで以上にコストがかかる。と、言う以前に伴走船をつけてしまったらシーカヤックで行く意味がない。最初からその船で行けばいい話になってしまうのだ。
もう一つ、島に日赤の水難救助の資格を持っている人がいなくてはいけないということで、シーカヤックガイドをやっている人は全員、その資格を取らされたという。シーカヤックのガイドが泳いで水難救助する必要があるのかどうか疑問だが・・・(普通はカヤック使うでしょ)。
その他、県警のからみや同業者同士の揉め合い、同じ沖縄県での他の島のカヤック業者との兼合いなどもあり、問題は色々と山積みされていてシーズン前にして気分はかなりブルー・・・と、いった感じらしい。
詳しい話はこの場で僕が書くのはどうかと思うので省くが、とにかく今年は耐えるしかないよと、中川さんは呟いた。数年前まで同じフィールドでガイドしていた僕には複雑な心境だ。西表島というフィールドの面白さの欠落、同業者の苦しみ、今の自分の身分。
色んな話をしていたら思わず長話をしてしまい、急いで店を後にしたのはいいが、乗る予定だったバスには乗れなくなってしまった。結局最終バスで西部に向かう事に。
船浦のバス停から降りると雨具に着替え、靴を脱いでサンダルになってキャンプ場まで歩いていった。あまりの雨に道路は浸水し、ヒザ下あたりまで水に浸かりながら重い荷物を背負って坂道を登る。キャンプ場への近道は川のようになっており、さながら沢登りだ。
キャンプ場に到着し、湿気と熱で汗だくになりながら受付を済ませる。
このキャンプ場は昔から使っていて管理人の姉さんも顔見知りだったのだが、今回は新しい人になっていた。どうやら浦内にある食堂で今は働いているとのことだ。
場内にはすでにテントが3張たててあり、そのうちの一つはいつも僕が立てている場所だったので反対側の芝生の上にテントを張った。
さっそく上原まで歩いて買出し。雨はなんとかあがってくれて助かった。ちょっと早いがパイナップルがもう売っていて、それのカットしてある奴を買い、食いながら帰る。
うまい。沖縄のパイナップルは本当に美味い!沖縄に来た実感がわいてきた。
■ミトレアキャンプ場で雨雲の下で「今に見とれや!」と、罵り過ごす日々
一人は年齢不詳のおじさん。赤いバイクに乗るライダーでサンゴの産卵を見に西表島に来たらしい。ダイビングをしながらキャンプをする人は珍しい。キャンパーネームはジローさん。
もう 2人は南風見田キャンプ場経由で米原から来たキャンパー兼ライダーで、年は僕よりやや上だが、典型的な米原キャンパー的野人スタイルだ。同い年で気が合い行動を共にしているらしい。キャンパーネームはタケさんとプイプイさん。
「キャンパーネーム」というのは、要は「あだ名」である。ネット上でのハンドルネームみたいな物だが、僕はあまりこれが好きでない。だから昔から僕はキャンパーネームを持っていなかったのだが「本名で呼んでもらっていいですよ」と言うと場がシラけるので今ではしかたなく使うことにしている。まァ、あだ名がつけづらい名前だという事もあるのですが。
で、僕のキャンパーネームですか??それは言えねぇ・・・。 BAJAUじゃないよ。
この夜、海の話を 4人でしたため、ダイバーのジローさんと翌日、シュノーケリングに行く事になった。タケさんとプイプイさんは雨でやる事ないので温泉に。ジローさんのバイクに 2ケツさせてもらい楽々移動。いやー石油エネルギー万歳!
西部某所の海はなかなかよい景観だった。ジローさんは右側、僕は左側に入って泳ぎだした。
最初、僕はカメラを持って潜水。 10分ほど泳ぐとリーフエンドに出て海底が急に深くなった。砂地からアマモ場、アマモ場からバラスが多いガレ場に出て、リーフのサンゴを通過すると満潮時の干瀬の浅場になる。行けば行くほど透明度が上がり、内湾性の魚から外洋性の魚に変わってくる。そしてその種類、数も増えてくる。そして一気に目の前にブルーウォーターの海が広がり、足元にはテーブルサンゴが敷き詰められた珊瑚礁が広がる。色とりどりの熱帯魚。やっぱり沖縄の海は最高だ。夢中になって魚の写真を撮った。
1時間ほどで戻り、今度は銛を持って同じ場所に行く。ところが誤ってサンゴを突いてしまい、そのショックで銛先をつけているワイヤーが切れてしまった。いきなり終了。結果ボウズ。ジローさんと海底の様子を話しながらキャンプ場に戻った。
キャンプ場に戻ると強烈なキャラクターを持つオヤジが待ち構えていた。オヤジはレンタカーで移動しているようだったが京都大学の中国人留学生とその息子の 3人という変わったメンバー構成で旅をしており、キャンプ場を馬鹿でかい関西弁をしゃべりながら色々やっていた。
キャンプ場の中央にある団らん場のようなテーブルで温泉から帰ってきたタケさん達と 4人でユンタクしていると、オヤジは市販のガスバーナーを 3つ五徳の下に置いてお湯を沸かし、僕らにコーヒーを煎れてくれた。ありがとうと最初飲んだのだが、妙に濃い!正直飲めんなーと思っていると「イヤー、私はコーヒー飲まないんで煎れた事ないんだけど味はどう?」などと言ってきた。ガスバーナーでお湯を沸かすという荒技にも驚いたが普段飲まないコーヒーを人に出すなよ!と心の中でつっこんでしまった。
しかしそのガスバーナーストーブはなかなか優れもので、雨の中でも消える事がなく、強力な火力を提供していた。おかげで中国人留学生はその火で中華鍋を振り、僕らに夕飯を奢ってくれた。薄味の湯麺にトマトと卵のピリ辛炒め、もしくはナスとレタスの醤油炒めをかけて食べるもので、野菜に餓えている僕らキャンパーにはたまらなく美味かった。
その晩はその関西から来たオヤジの話をネタに呑んだ。何の話をしたかは正直覚えていないが、とにかくそのオヤジがやたらとしゃべっていたのは確かだ。間違いない。
唯一覚えているのは、そのオヤジが小学生の頃の話だ。
昔、テストで悪い点を獲ったオヤジは先生に呼び出された。そこで先生はオヤジに対し、こんな成績ではダメだぞ、もっと勉強しろ!と、怒鳴ったらしい。まァよくある話ですね。それに対しオヤジは今でもこう思っているらしい。
「なんで俺が怒られなきゃならないんだろうか?悪い点を獲ったのは俺が悪いんじゃなくて、悪い点を獲らせてしまった先生が悪いんじゃないだろうか??そう思うだろ??困った先生だよなー・・・。教師という人種はあてつけがましくて困る!」
いやー、人間の価値観って様々なのですね・・・と思い知った夜でした。
翌日、今度は一人で自転車をこいで海に向かった。雨が突然降ってきたり、突風が吹いてくる事もあったが昨日のうっぷんをはらす為、この日は魚突きオンリーで 3時間潜る。
そのかいあって良型のチヌマン(テングハギ) 2枚とダルマー(ヨコシマクロダイ) 1枚を獲ることができ、特にダルマーは難しい魚なので海面で一人、ガッツポーズで喜んだ。
キャンプ場に戻り、魚の下処理をしてウェットスーツを潮抜きしたりすると時刻は 4時になっていた。雨に濡れない小屋の中で休んでタケさんと話していると、昨日のオヤジが色々持ってきてくれ、なんだか物凄く早いがビールなど飲みだしてしまい、気づいたころには明るいうちから宴会が始まってしまった。
この日は新たに 2人キャンパーが来ており、自転車で来た親父ギャグ連発の長野のチャリダー、「監督」と、テントのポールを無くしてしまったので駐輪場でチェルトを貼っているオヤジ(キャンパーネームなし)という面子で合計なんと 9名。途中、ジローさんが帰ってきたので魚をさばき、刺身をこしらえ、粗は味噌汁にして宴会が終了する頃に出すことにした。
淡白なダルマーの刺身に対し、脂の乗ったチヌマンの刺身はちょっとクセがあるが美味い。独特の風味が懐かしく、それがまた沖縄に来た実感を醸し出してくれた。チヌマン一匹残したとはいえ、刺身はあっという間になくなってしまった。
この晩は 12時近くまで泡盛呑みながら話をした。昨日の親父は疲れたのか今日はずいぶんと静かだった。
次の日は朝から大雨。昼までテントから出ることなく本を読んで過ごす。この日の早朝、関西のオヤジと中国人留学生達はキャンプ場を出たようなのだが、朝の 4時頃、朝食でも作っている時なのだろうか、留学生に対してオヤジが「お前の教育方針は間違っている」とか、「子供はちゃんとしつけないとダメだ」とか言って「コラーッこいつがッ!こいつがッ!!」と子供に怒鳴りつけたりと、とにかく朝っぱらから叫びまくり、それに対抗して留学生が自分の教育論を言い出して口論がはじまってしまい、それはもううるさい事この上なかった。
昼頃、テントの中にいてもしょうがないので外に出て見るとタケさんたちもテントから出ていてラーメンなどすすっていた。
「今朝、起きてた?」
「そりゃー起きますよ・・・。口論するのはいいけど、時間考えてくれよなー」
「だなー」
そんなとりとめもない話などしているといつのまにか夜になってしまい、この日も残りの 6人で宴会をし、寝た。
またまた翌日も雨。しかも雷つき。山から海へ雷雲が移動するのがわかる。雨が上がり、もう大丈夫かな?と思うといきなり近くで落ち、続いてまた雨が降り出してくる。
アーもう勘弁してくれ。
実は大原から船浦に来た時、僕はカヤックを東部に置いてきていた。正直天気予報を見る限り雨は止みそうもなかったし、文章では伝えていなかったが風も強く、これだけ雨が降っているのにタープテントを張っていないくらい風が吹いていたのだ。こんな状況でカヤックを漕ぎ出すのは無謀だと思い、今回は潜りだけに絞って西部に移動してきたのである。
しかしまさかここまで悪天候が続くとは・・・。カヤック持ってこなくてよかったとも思うが、それでもこの天気は納得しがたい物があった。
唯一の遊び、潜りもひどい物で、この日昼過ぎに太陽が顔を出すことが会ったので、みんなでシュノーケリングに行こうということになりジローさんとタケさん、プイプイさん、カントクと 5人でいつもの海に行く。
ところがさっきまでの大雨で海は激ニゴリ!!透明度 30㎝といった海を泳いでいくと、リーフエンドあたりでやっと魚が見える程度にはなった。海水と淡水の層がきれいに出来上がり、濁っているのは表層面だけという状況。さらにその下はモヤがかかってしまい、まったく持ってひどいありさまだった。しかも僕の腹の調子が悪く、途中でウェットスーツを脱いで海中ウンコ。ますます海が汚れる・・・!
それでも久々に晴れたためか、ビーチには他にもシュノーケリングをする人達がチラホラ現れ、銛を持っていた僕は「ヤバイ、ヤバイ」と慌てて魚を一匹突き、陸に上がった。さすがにシュノーケリングのインストラクターがいる前で銛は持ちたくない。
そんなひどい海だったが、みんな面白かったと納得し、上原の川満スーパーで買い物をして帰った。
キャンプ場に着くとまた雨が降ってきた。それもまたかなりの大雨である。そんな中、屋根のある小屋で宴会の準備。さっき突いてきたアーガイ(ヒブダイ)をタタキにし、野菜が喰いたかったので真空菜のニンニク炒めを作る。あのタイの屋台かなんかで上空にポーンっと放り投げている料理である。南国の野菜なので西表島にもあるのだ。
大雨の中、いつも通り宴会。僕の料理とタケさんプイプイサン提供の冬瓜ラーメン、ジローさんの焼きそばなどが出され、今夜も料理にはことかかなかった。
BGMにプイプイさんがジャンベを叩いていると、その音に連れられて「ピゥウーィ、ピゥウーィ」と鳴きながらシロハラクイナの雛がヨチヨチとさまよい歩いてきた。後で知ったのだが、ジャンベの音はクイナが雛を呼ぶ時の鳴き声に似ているらしい。雨の中、巣から迷った雛が音に連れられやってきてしまったのだ。
「まいったなー、どうしようかこいつ・・・」
「しかたない、俺がしばらく面倒見るか」
そう言ってその子はジローさんのポケットにしばらく預けられる事になった。全身びしょぬれで、今にも死にそうな雛をだまって雨の中に置いとく訳にもいかない。
でもこんな意見もあった。
「焼き鳥にしよう!」
却下(シカト)された。
深夜頃、雨があがり星空が見えてきた。
天気が悪い中、何気に楽しいキャンプもあとわずかでみんなここを去る計画をしていた。明日が最後の夜なので盛大に宴会をやろうということになり、今夜はフリーに使える夜最後だった。前からみんなで「ヤシガニ喰いテェナ~」と言っていたので、ここはせっかくだからヤシガニ採りに行くか、という話になり、ヤシガニ採りに。
だがあいにく大雨で砂がえぐられ地形が変わり、気温が下がったのかオカガニさえ見ることが出来ず、よろよろとキャンプ場に帰っていった。ポケットの中の雛が「ピゥウーィ、ピゥウーィ」とうるさかった。
翌朝、ヒナはいなくなっていた。ジローさん曰く、近くでクイナが鳴いていたので放しておいたらいつのまにかいなくなっていたとのこと。無事に親の元に行っていたらいいけど。
この日は西表西部最後の日とあり、雨もあがったので僕の本命ポイントに行く事にした。ここではいつも後輩が潜って、大きいアカジンやらガーラやらを突いているのだ。僕も地形が気に入り、回遊魚を獲るならここだと決めていた。
ところがこのポイントに行く道が草で覆われており、行く手を阻んだ。あまりのブッシュの激しさにあきらめざるを得ない。しかたなく違う行きかたを考え、回り込んでいくことにしたが、途中、ウナリ崎から海を見るととんでもない景色が広がっていた。
飛ばされそうなほどの爆風に加え、沖から押し寄せるとんでもない白波。さらには沖縄県で一番でかい川、浦内川から信じられないほどの茶色く濁った水が流れ込んでおり、普段はサンゴが美しく見えるウナリ崎が泥ニゴリになっていた。
「あ・・・こりゃダメだ」
しばらく海を見ていたがこれはダメだとあきらめて、魚も無理かもしれないと保険にパイナップル館で完熟パイン( 100円)を購入しておく。
結局いつも潜っている場所に。
どうせだからと気合いを入れ、かなり広範囲に泳ぎ回り、 4時間ほど海の中にいた。
結果、漁獲は結構なものでセグロコショウダイ、アヤコショウダイ、チョウチョウコショウダイという「クレー 3兄弟」と、 40㎝オーバーの良型のハマサキノオクサン(トガリエビス)を突いてあがった。この日もガーラや回遊魚、青物には出会えなかったが、クチナジ、ミミジャーの団地を発見したり、メーターオーバーのアーラミーバイやナポレオンフイッシュを見ることができ、まぁそれなりに満足したが寝ていた 60㎝オーバーのアカジンに寸前のところで逃げられたり、バラハタを外しまくったりと悔いも残るダイブだった。
その夜はまさに豪勢な食事で、 4種類の魚の刺身とトガリエビスの煮付け、コショウダイのアラ汁と塩焼きという物で、刺身だけで十分酒の肴にはなったが、コショウダイのアラ汁のアラだけを味噌を入れる前に取り出し、それをポン酢で食べるとみんな無口になってしまった。トドメに出した煮付けはまさにキンメダイ。脂の乗った肉はほろほろと崩れ、南国の魚とは思えないコクのある逸品だ。これには僕も悶絶した。タケさんもプイプイさんも、「今度米原で俺たちもヤス買って突こうぜ!」「うん・・・、一匹でも突かないと内地に帰れないな、こりゃ」と魚突きに興味を見出していた。
喰うのに夢中だった為か、酒はそれほど進まず、昨日買った八重泉の一升瓶がちょうどなくなるといった感じだった。タケさんとプイプイさんは 10時過ぎには就寝。僕とジローさん、カントクの 3人で 12時くらいまでチビチビ飲みながらユンタクしていた。
旅人同士が話すことといえば、決まっている。「どうすればもっと旅をすることが出来るか?どんな職が一番旅をすることが出来るか?」というものだ。そんな話をしながら夜はふけていった。
■結局僕はぱぴよんで働くのである
「・・・・・・・・!!」
「美味い!」
やばい美味さだ。濃縮還元魚汁スープは一晩たってまた絶妙な味のバランスになっていた。あまりに美味いのでおかわりして冷や飯にもぶっ掛けて食べる。タケさん曰く「俺が喰ったアラ汁の中で一番美味い・・・」
その日、キャンプ場を去るのは僕とタケさん、プイプイさんで、 2人は南風見田キャンプ場に行き、僕は大原に戻る。カントクとジローさんはまだここにいるようだった。
この日、みんなは船浮まで遊びに行く予定だったが、 4人は足があるのでいつでも移動できるが、僕はバスなので船浮に行っていたらバスに間にあわない。あきらめてキャンプ場で後かたずけをしてすごす事にした。
4人がいなくなった後、テントをかたして洗濯物を干し、東屋で三線など弾いて過ごした。
この旅で僕は沖縄の三味線を持ってきていた。かさ張るのでどうしようかと思ったが、楽器があるとやはり楽しい。持ってきて正解だった。
10時頃、自転車を借りて上原まで行く。知り合いにパイナップルを送るとともに、サイトのリンクもしてある「サンライズカフェ」にYさんを訪ねる。久しぶりに会うこともあり、 30分位話をしてTシャツを 1枚買っていく。
川満でパンとジュースを買い、上原港の隣にあるマルマビーチにいくと、偶然にも「南風見ぱぴよん」の車があった。
「へー、今日は西部に来ているのかー」
そう思いながら堤防の上で水着のネーちゃんを見つつパンなど食べていると、カヤックがこっちに向かってくるのが見えた。白くてでかい舟。明らかにぱぴよんの「白鯨」である。強い風の中、えっちらおっちらとカヤックは近づき、目の前の浜に上陸した。
近づいて挨拶をするとあっちも驚いていた。
今思うとあそこで出会ってしまったのが運のツキだった。
挨拶してまもなく、即答で山元さんがこう言った。
「ちょうどよかった!アカツカ、お前俺と変われ!」
「は・・・、え!?」
「俺の変わりにお客さん連れて小堀君と一緒にヒナイサーラ行ってくれ、俺は車回しておくから」
「でも、僕自転車あるんで・・・」
「そんなの後で車に積んで運べばいいだろ」
有無を言わさず臨時でガイドをすることになった。お客さんは 12人くらい。小堀さんと共に船浦湾を漕いでヒナイ川を昇り、ヒナイサーラの滝を観に行く事になったのだ。
マルマビーチでお客さんと共に弁当を食べ、 1時くらいに自転車をデリカの荷台に無理やり乗せ、ミトレアで返してから船浦湾入口に向かった。
船浦湾は干潮から満潮に移る時間帯で干上がっていた。だから最初は水路をカヤックを引っ張りながら歩いていく。途中、ヒナイ川とマーレ川の分岐点でやっとカヤックが乗れるほどの水深になり、そこでお客さんをカヤックに乗せて出発。海は風が強かったので、川に入ってあまりにも穏やかなのでお客さんはえらく上機嫌になっていた。無事ヒナイサーラの滝を見て川を下る。帰りは満潮になって潮が湾の中に入り、十分カヤックに乗って帰ることができた。
僕自身、ここに来て初めてカヤックに乗ることができ、久しぶりの白鯨の乗り心地とヒナイサーラの滝という久しぶりに来た観光地に我を忘れて遊びまわった。
でもお客さんと一緒にツーリングに行くのは大変だけどやはり楽しい。いろんな人と知り合いになれるということもあるし、自分の知っている面白い場所や物を見せて感動してくれると「あーやっぱりアウトフィッターもいいよなァ・・・」と思ってしまう。
みんなでカヤックを道路に上げ、トレーラーに積んで小堀さんは東部のお客さんを連れて帰り、僕は山元さんと西部のお客さんを送ったあと、ミトレアキャンプ場に戻り船浮から帰ってきたみんなに挨拶する。
「アカツカ君、どこ行ってたん?」
「イや・・・ちょっと事情がありましてヒナイサーラに・・・はい」
記念写真を撮りアドレス交換をして山元さんの車に飛び乗った。偶然にも西表島に来た初日に会った女の子も隣の民宿に泊まっていてバッタリ会う事が出来た。こういうのが一番旅をやっていて面白い。
また多くの友人を作り、僕は西部を後にした。
山元さんと魚突きやカヤックの話をしながら走っているといつのまにか東部についた。民宿で下ろしてもらい、シャワーに入ってまったりしていると再び山元さんがやってきた。今日の手伝ったお礼に飯を奢ってくれるというのだ。行きつけの「喫茶南国」に行く。
ビールとチヌマンの刺身、野菜炒め定食をご馳走になる。
久しぶりに会う山元さんはなんだか老け込んだというより、疲れているというか、何か大変なものを抱えてしまったかのような哀愁を帯びた感じを受けた。無理もない。ここ 2年、僕が西表島を去ってから遭難騒ぎまで、いろいろなことがあり、あげくの果てには西表島内でのカヤック業者の無責任な経営状況が露出され、山元さんはそれをいたく嘆いていた。
去年の年末、冬季の西表島半周ツアーである「西表年越し半周ツアー」の最後が行われたらしい。つまりもうぱぴよんでは年越し半周ツアーはやらないそうだ。僕はこのツアーを北海道の「知床 EXPEDITION」並に激しいツアーだと考えていたのでいつかは参加したいと思っていた。
「本郷のこともあるが、それ以前からもうこれで最後にしようと決めていた」
山元さんも 50歳になり、カヤックガイドとしてあまり無茶は出来ないなーと思うようになったらしい。以前はカヤック初心者の人を連れて色々やり、それでカヤックにはまってくれる人も多く、それが嬉しかったがもうそんな無茶もできず寂しいともらす。
確かに西表島のカヤック業界は変わろうとしている。それまで手付かずの自然を相手に、無手勝流でカヤックをやっていた場所も多かったが、そのツケが今になってやってきているようにも思える。無法地帯だった場所がやっとまともになってくるといえばそれまでだが、最初からしっかりと経営しているところからすればえらい迷惑な話である。
カヤックの本来の姿、「フリーダムマシーン」としての性能はくしくも我々カヤッカー自身が西表島から無くしているようにも思える。
僕はある意味、西表島で無茶が出来た時代の最後のカヤッカーなのかもしれない。
山元さんと別れ、一人宿に戻り雑誌などを読んでいたりするが、たまに物思いにふけったりする。気付いたら寝てしまい、 2時頃起きる。そいてまた、 3時頃寝る。西表最後の夜は色々と考えることが多い夜だった。
■石垣島へ
「あれま~アカツカさんじゃないのぉ~」
これがお決まりのオバァの挨拶である。昔からこの宿にお世話になっていた僕は、まだこのオバァが宿の仕事をやっていたときからの間柄なのである。今は病気で体が弱ってしまったのであまり宿には顔を見せないが、まだまだ元気そうで何より。これから西表を出るというと寂しそうに挨拶した後、お菓子をくれた。オバァ、ありがとう。
14時の高速船で西表島を後にする。ターミナルには昔の職場の所長がいる。久しぶりに会うと、なんだか腕周りがガッシリしていた。相変わらず陽気な人だ。
今回はほとんど西部にいたのであまり知人に会う事ができなかった。先輩の賢さんとも会えなかったし、南風見田キャンプ場にもいってないので管理人のウダツさんにもあってない。なんだか心残りは多かったが西表島を後にした。
石垣島に着くと、ここも行きつけの宿、「パークサイドトモ」に行く。石垣島もドミトリーが増え、安いし出会いも多いし、離島桟橋に近いこともあり、みんなそこに泊まってしまい、石垣島では元祖的な素泊まり専門の宿トモは空いていた。僕はここが那覇行きのフェリーターミナルに近いので未だに使っている。だが、時代を感じずにはいられない。わずか 5~ 7年という間だが。
釣具屋や三味線店で買い物をして離島桟橋によると、偶然にも知ってる顔があった。
タケさんだ。
さっき西表島からこっちに渡ってきたばかりでこれから米原に戻るという。ただバイクがいかれてしまい、また明日バイクをとりに戻ってこなければならないらしい。その為米原から 2人を迎えにお姉さんがきていた。北海道出身のライダーで結構きれいめな人だ。ニヤニヤとタケさんの顔をのぞく。
ヘルメットを取りに行っていたプイプイさんが戻ってきて、さー行くかというのに、なかなかプイプイさんの原付のエンジンがかからない。男子が代わる代わるエンジンをキックしていれる。なかなかしんどい。
500回くらいキックしただろうか、プイプイさんが「もうダメだこの野郎」的キックを繰り出していたら何とかエンジンがかかり、無事に?タケさんは姉さんのバイクに 2ケツし米原へと向かっていった。
最後にクールガイなプイプイさんが握手をかわし、笑顔で去っていったのが印象的だ。
僕は翌日、琉球海運のフェリーに乗って沖縄本島に向かった。